月別アーカイブ: 2015年8月

ゼロ・グラビティ

「批評3」
2013年のアメリカ映画『ゼロ・グラビティ』。宇宙船の事故で宇宙空間に放り出され、奇跡的に地球に帰還できた宇宙飛行士の物語。アイドル的女優だったサンドラ・ブロックがいい感じでおばさんになり、「人間」について熱演している。映画の最後の、彼女が、漂着した浜辺で自分の手で砂に手型をつけ、喜びにあふれ、大昔に両生類の子孫になったといわれる魚のイクティオステガの子孫のような頼りない感じでヨロヨロと立ち上がり、大地を踏みしめて歩くシーン。私はこのシーンに一番感動した。まさに「帰還」。彼女は懐かしい人間の場所に帰ってきたのだ。もう同じ過ちは繰り返せない。人間には「大地」が不可欠。「大地」との親密な関係を発展させる「開発」でない限り、どんな「開発」も無効になってしまう。宇宙開発の場合であれば人間に容赦なく「死」をもたらすという事実を、この映画は見事に暗示してくれている。

哲学者アーレント

「批評2」
映画『ハンナ・アーレント』。哲学者アーレントはハイデッガーの愛弟子だった。「いかに、自分で考えることが、重要か」について徹底的にハイデッガーに教えられ、その思想に深く共鳴した。このアーレントが、ナチスの戦犯アイヒマンの罪を問う公開裁判で、アイヒマンがいかに残虐な人間かではなく、権力に迎合することでいかに自分で考えなくなってしまっただけの凡庸な人間であるかについて証言し、アイヒマンの残虐性について徹底的に批判して欲しかったマスコミや世論から大バッシングを受けるというストーリー。しかし、アーレントはこのバッシングをはねのけていく。重要な問題について、自分で考えず、それを他にまかせてしまうことが、その後いかに大きな負の連鎖を引き起こす場合があるかについて示した見事な映画だ。自分がやったことは、自分で責任を取る必要がある。しかし、自分で考えることをやめてしまうと、その痕跡が心に残らず、その責任が取れない。アイヒマンはその好例だったとするアーレントによる指摘だ。

そして、この映画の底流になっているもう一つのテーマが、愛。ハイデッガーがナチス協力者だったという問題は別のテーマなのでさておき、アーレントはハイデッガーと出会った若き日に、彼を愛した。ハイデッガーを陶酔の表情で見つめていた若き日のアーレント。その表情は美しく、印象的だ。彼女を支え続けた夫も、いまでも彼女の心にその愛が生きていることを知り、それが悲しい。彼にはその愛をどうすることも出来ない。しかし、アーレントのハイデッガーに対する愛は、稲垣足穂的にいうならば「A感覚的な愛」で、純粋に精神的なもので、彼との関係を壊すものではない。アーレントは依然として夫を愛し、彼を必要としている。だから彼も彼女を受け入れていく。人生にはたびたびこのような難題が起きる。精神的な愛の対象をもつことは人生を豊かにする。しかし、それを自分のパートナーがもっていることは辛い。どうするか? 人は、このような局面で、自分の調整能力を最大限に試されることになる。

私たちは異次元にも住む?

「身体の夢2」
余剰次元の探求者でいま人気の理論物理学者リサ・ランドールの『宇宙の扉をノックする』(NHK出版2013)の表紙の扉には、「科学するとはどういうことか? ヒッグス粒子は何か? 暗黒物質は? ブラックホールは作れるのか? そして私たちは異次元にも住むのか?」と書かれている。実に巧みな質問の組合せによるキャッチコピーで、これで読者の購買意欲を喚起し、誘っているのだ。というのも、よく読めば、最後の「そして私たちは異次元にも住むのか?」以外の問いは「科学的問い」であるが、この問いは違うからである。リサ・ランドールも、この本で人間が異次元に住むかどうかについては語っていない。しかし、この最後の非科学的問いが、ふつうの人びとの関心を誘い、購買意欲に火をつけるのである。

ある振付家の「あなたが研究する余剰次元は、人間の身体の動きにも影響を与えているのか?」という質問に対して、リサ・ランドールは「与えていないと思う。物理現象に対する余剰次元の影響は限りなく小さいから。与えているなら、私たちは既にその効果を観測しているはず」と答えている。僕には、このやり取りが面白い。それは、彼女の答え方が、近い将来観測精度が飛躍的にアップするなら「その効果が観測されるかも知れない」という可能性も残しているからだ。そして、もしその効果が実証される事態になる場合には、彼女なら素直に受け入れるのではないか? 彼女は前著『ワープする宇宙』(NHK出版2007)において、余剰次元の検証作業の中で、「実証」よりも先にその存在を「信じている」ことを告白した、僕にとっては次世代型の科学者であるからである。

僕は、余剰次元は存在すると想像している。そして、その余剰次元が物理的世界と重なり合うようにして存在しており、物理現象に対する余剰次元の影響は限りなく小さいとしても、その「効果」は精神的には大きく、その小ささの中にまだ発見されていない「新しい物質」も存在し、その「新しい物質」の中に「新しい神」も宿っていると考えている。それは、脳を離れた「心」は物理現象としては存在できなくても、余剰次元には続けて存在できると考えていくのと同様である。余剰次元を構成する物質はいま、リサ・ランドールたちによりヒッグス粒子ではないかという探求が続けられている。同様に、余剰次元よりもさらに微細レベルで、四次元の物理現象を構成する物質も、余剰次元を構成する物質も、共通のさらに小さな物質から構成されていることが実証されるかも知れない。僕はそのように考える。なぜか? それは、それが僕の「心」が僕に依頼した仕事であると感じるからだ。

もし、そのような小さな物質が発見されたりすると、それこそ大変なことになる。余剰次元に存在する「心」とは、余剰次元を構成する物質による「物理的世界と同様の物理現象」として生成している、と言えるかも知れないからだ。それは、脳科学者が人間の「心」は脳内の物理現象として生成していると主張するのと同様のレベルに高められる。そうすると、余剰次元で存続する「心」は現代科学からは認識できないのも当然である。つまり、現代科学にはそれを否定できる根拠も存在しない、ということになる。つまり、現代科学が次世代の科学に乗り越えられる可能性がここに浮上するのである。

白いオオカミ

「身体の夢1」
マサコ・グレイのダンスを最初にロンドンの路上で見た時、可愛い女の子なのに鋭い目つきをしていて、私は一瞬白いオオカミかと思い、釘付けになり、震えた。私たちの世界では、人種の混淆が進むだけではなく、ヒトか動物か見分けがつかないような野性の表情をもつ人間も増えて欲しいと、その時私は願った。

When i saw Masako Gray’s dance on the road in London first time, at the moment i thought she was a white wolf with an eagle eyes on the cute face, then i trembled for pleasure. In that time i hoped that not only the race mixture will make progress but also this kind of people who have a wild look that is not easy to tell the difference between human and animal will increase in our world.

© 2015 Tokyo Space Dance