カテゴリー別アーカイブ: 批評〜アート・建築・デザイン・科学・哲学・小説・映画・コミック

ガウディと薬師丸ひろ子 / GAUDI and Hiroko Yakushimaru

「批評5」
NHKの『ガウディの遺産』。女優・薬師丸ひろ子が、彫刻家・外尾悦郎とサグラダ・ファミリアを訪ねる番組。サグラダ・ファミリアは、私などが言うまでもなく「成長し続ける教会」として世界的に有名。そのガウディは1926年6月7日、路面電車に轢かれて死亡。みすぼらしい格好をしていたため病院での治療が遅れたらしい。彼は、毎日職人たちに「諸君。明日はもっといいものを作ろう」と語っていたという。すでにいいものを作っているのに。何とも素晴らしい人だ。

そして私は、この番組を見ながら、ある種の「幸福」を感じていた。それは、元アイドルの薬師丸ひろ子が、いまも元気で、謙虚で、自然体で、おばさんの姿を取りながら人間として成長し続けている存在に見えたから。謙虚に、真摯に、人間として成長し続けること。それは、アイドルにも、何らかの仕事を成し遂げた人にも、ふつうの人にも、誰にも容易なことではない。世間には80%しかない才能を120%に見せることに必死で、それに成功して自信過剰で傲慢な人間になり成長を止めてしまう者も多い。薬師丸やガウディはその逆。薬師丸のようなおばさんと一緒にいると、100点満点で幸福で、平和で、しかも同時にきびしく自分の創造性を試される気がする。こういう人間に対しては、ウソはまるで通用しない。ガウディが周囲の人びとにとり貴重だったように、薬師丸もまた同じように貴重だと、番組を見ていて私は考えた。

映画『インターステラー』

「批評4」
クリストファー・ノーラン監督の映画『インターステラー』。リサ・ランドールの余剰宇宙論を絵にしたような作品だ。バリ在住スペースアーティストのリチャード・クラーさんと、私も2000年に『インターステラー・メッセージ・コンポジション』を開始した。しかし、難しくて進展がなかった。だからこの映画は何とも魅力的だ。注目は、主人公が約30年後に娘に再会するために二人にとって懐かしい部屋に戻ってきた場面。父親は時間が伸縮する異次元世界に、娘は私たちと同じ四次元世界に住んでいる。

映画では、二人の世界は部屋の「本棚」を仲介につながっている。父親が背後から本を動かし、小さい時の娘も物理学者として成長した娘も、二人とも「父親」を敏感に感じ取る。最後に、成長した娘が本棚に置かれた時計が「暗号」を刻んでいることに気づく。そして、その暗号を解いて宇宙の秘密を明かす。その秘密とは、二つの世界は同じ空間に同居していて、父親の異次元世界の内部に娘の四次元世界が存在しているという事実。そして、娘は、四次元世界を超えていく人類が「進化」をもたらすという希望を語る。

ゼロ・グラビティ

「批評3」
2013年のアメリカ映画『ゼロ・グラビティ』。宇宙船の事故で宇宙空間に放り出され、奇跡的に地球に帰還できた宇宙飛行士の物語。アイドル的女優だったサンドラ・ブロックがいい感じでおばさんになり、「人間」について熱演している。映画の最後の、彼女が、漂着した浜辺で自分の手で砂に手型をつけ、喜びにあふれ、大昔に両生類の子孫になったといわれる魚のイクティオステガの子孫のような頼りない感じでヨロヨロと立ち上がり、大地を踏みしめて歩くシーン。私はこのシーンに一番感動した。まさに「帰還」。彼女は懐かしい人間の場所に帰ってきたのだ。もう同じ過ちは繰り返せない。人間には「大地」が不可欠。「大地」との親密な関係を発展させる「開発」でない限り、どんな「開発」も無効になってしまう。宇宙開発の場合であれば人間に容赦なく「死」をもたらすという事実を、この映画は見事に暗示してくれている。

哲学者アーレント

「批評2」
映画『ハンナ・アーレント』。哲学者アーレントはハイデッガーの愛弟子だった。「いかに、自分で考えることが、重要か」について徹底的にハイデッガーに教えられ、その思想に深く共鳴した。このアーレントが、ナチスの戦犯アイヒマンの罪を問う公開裁判で、アイヒマンがいかに残虐な人間かではなく、権力に迎合することでいかに自分で考えなくなってしまっただけの凡庸な人間であるかについて証言し、アイヒマンの残虐性について徹底的に批判して欲しかったマスコミや世論から大バッシングを受けるというストーリー。しかし、アーレントはこのバッシングをはねのけていく。重要な問題について、自分で考えず、それを他にまかせてしまうことが、その後いかに大きな負の連鎖を引き起こす場合があるかについて示した見事な映画だ。自分がやったことは、自分で責任を取る必要がある。しかし、自分で考えることをやめてしまうと、その痕跡が心に残らず、その責任が取れない。アイヒマンはその好例だったとするアーレントによる指摘だ。

そして、この映画の底流になっているもう一つのテーマが、愛。ハイデッガーがナチス協力者だったという問題は別のテーマなのでさておき、アーレントはハイデッガーと出会った若き日に、彼を愛した。ハイデッガーを陶酔の表情で見つめていた若き日のアーレント。その表情は美しく、印象的だ。彼女を支え続けた夫も、いまでも彼女の心にその愛が生きていることを知り、それが悲しい。彼にはその愛をどうすることも出来ない。しかし、アーレントのハイデッガーに対する愛は、稲垣足穂的にいうならば「A感覚的な愛」で、純粋に精神的なもので、彼との関係を壊すものではない。アーレントは依然として夫を愛し、彼を必要としている。だから彼も彼女を受け入れていく。人生にはたびたびこのような難題が起きる。精神的な愛の対象をもつことは人生を豊かにする。しかし、それを自分のパートナーがもっていることは辛い。どうするか? 人は、このような局面で、自分の調整能力を最大限に試されることになる。

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