身体の夢 (エッセイ)

『身体の夢 / VISION of BODY』(エッセイ) [抜粋]
福原哲郎

身体は世界75億人の毎日の関心事。誰もが<身体の夢>を見る。

◎目次

第一章 『百万の仮説の上に構成される一つの物語』
第二章 『舞踏とは何か?』
第三章 『スペースダンスとは何か?』
第四章 『新しい知』
第五章 『<身体の未来>をデザインする』
第六章 『アートの新しい役割』

「おわりに / Epilogue」

「稽古のことば」

『写真展〜世界のスペースダンサー & 子供宇宙ダンス』
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第一章 『百万の仮説の上に構成される一つの物語』

〜過去の遠い記憶を辿り、そのリターンとして、未来への一歩を踏み出す〜

1 アートとサイエンス、二つの心

[1]

現代科学の最先端を走る理論物理学者リサ・ランドールは、自分の余剰次元の考えが科学的に実証されたものではなく、「自分が信じている考え」であること、宗教者やアーティストと同様に「自分に訪れた直感」であることを告白している。

  「ふと、自分の本当の気持ちに気づいた。私は余剰次元が何らかのかたちで存在しているに違いないと、信じているのである。まさか自分がそんなふうになるなんて」(リサ・ランドール『ワープする宇宙』 NHK出版/2005)

つまり、彼女も、自分の科学的発想をサイエンス以外のものに基礎を置いており、彼女の精神には宗教或いはアートとサイエンスの「二つの心」が存在している。そして、それは矛盾なのではなく、それこそ現代的精神として相応しいと私は考える。
私たちのこれからの時代は、宗教とアートとサイエンスが再び接近する時代になるだろう。宗教やアートと距離をとることで成立したサイエンスの時代は、その意味で終るのである。宗教やアートがサイエンスをリードすることは依然としてあり得る。そして、サイエンスが、一度否定した宗教やアートに対して新しい内容を加え、宗教やアートを更新することもできる。私がこの本でめざすのも、サイエンスの更新であり、宗教とアートの更新である。

[2]

この本では、科学的真実といわれるものも今だ「仮説」に留まっているものが多いという事情も考慮に入れ、「仮説」であるか「真実」であるかは第一義的に重要ではない。重要なのは、私という一個のアンテナにとり「真実らしく感じられるか」どうかであり、それが「仮説」であっても、或いはSFであっても、私がこの本で探求するテーマにとり面白く、重要であると見做される見解については、それを採用するという方針を採っていく。

[3]

私には、舞踏家として培ってきた以下の思いがある。

人間の身体と脳は動物だった頃の記憶も含めて、あらゆる記憶を宿している。
人間は夢見る存在であり、その夢は、余剰次元と、未来に向かって流れ込んでいる。

このような思いを支える感覚として、私には「余剰次元が、私たちが住む四次元世界とは別のあり方ですぐ近くに存在し、そこには失われた動物たちや異星人たちや死者たちが住んでおり、つねに何かを発信している」があり、これは真実である。或いは、そのように余剰次元が存在して欲しいと希望していることは事実である。したがって、それが現在のサイエンスによって事実として立証されないからと言って否定する必要は何もない。それは、現在のサイエンス自身が更新されていく運命にある過渡的存在であることも間違いないからである。そのような過渡的存在に自分の大切な感覚を保証される必要はないだろう。

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私の「物語」も、ほとんどが「仮説」から構成される推論の域を出ていない「物語」かも知れない。しかし、私にとっては「思い当たる内容」であり、心に響くものとして、重要な「物語」である。このような「物語」でも、世界に起きる問題を解決したり、人びとがよりよく生きるための力を発揮するならば、それは貴重な試みであるということになる。

2 一つの物語

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以上の議論を前提として、私は、私の「百万の仮説の上に構成される一つの物語」について、次のように始めることにする。

  むかしむかし、イクティオステガなどの「弱い魚たち」が、「強い魚たち」によって海を追われ、川に逃れたという「仮説」がある。そして、イクティオステガたちが「強い魚たち」につかまらないために胸ビレを川底の砂利に入れて急流に耐えている内に、胸ビレが骨格を備えて足になり、肺呼吸を発明し、やがて足を使って陸上に進出し、両生類になったという「仮説」がある。

これらの「仮説」によれば、両生類は、川から、しかも、「弱い者たち」から誕生したのである。このような両生類は、イクティオステガたちの記憶を、自分たちの脳や動作の中に宿しているだろうか。そして、両生類がイクティオステガたちの記憶をもっているとするならば、それは喜びに満ちた記憶なのだろうか。つまり、自分たちが両生類になったことは嬉しい事件であり、このようなルーツをもつことを誇りに思っているだろうか。或いは、逆に、それは悲しみに満ちた記憶なのだろうか。

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私がこのように問うのは、このような来歴をもつ両生類が陸上の多様な環境で成長することで、多くの四足動物として進化していくからである。そして、一部の四足動物は、食物を採るためか、或いは別の理由もあったのか、「空中に飛び出す必要」に迫られ、彼らは木に登り、前足を翼に変え、鳥になった。また、他の一部の四足動物は、これも同様に、食物を採るためか、或いは別の理由もあったのか、「立ち上がりたいという欲求」にさいなまれるようになり、前足を空中に上げ、後ろ足だけで立ち、二足歩行を不完全ながらも成功させるようになり、サルになった。そして、このようなサルが、自由になった前足を「手」として使い、動物の骨を武器としても使用するようになり、道具文化の第一歩を記したといわれているが、それは真実だろうか。

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そして、最後に、われわれ人類についてであるが、一部のサルたちが、或いはサルに近い種族たちが、いまだ不完全な自分たちの二足歩行について不満に思い、「何かの不足を感じた」のか、或いは別の動機によるものなのか、二足歩行を他のサルたちにはない二本の筋を腰に進化させて完全なものに高め、後足だけで真っ直ぐに立てるようにして、自分たちを「最初の人類」としての特徴を際立たせることに成功した。

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こうして、二足歩行を完成させた人類が、直立することによって脳を肥大化させ、「手」をさらに自在に使用して多様な道具を発明し、モノを誕生させ、言葉をたくみに使い、食物を生産し、戦争の技術を磨き、敵を殺して同族を増やし、コミュニケーションを発達させ、サルの世界にはない人工物の世界と高度な文化を築きあげ、人類として地上に君臨するようになっていく。これらの過程でも、人類は、さまざまな迷いごとや、悩みや、自分にも理解不能な数々の欲望や絶望に襲われただろうか。人類草創期における「悩み」について、また魚からの進化の歴史も含めこのような特徴をもつ人類として誕生したことの「喜び」について、或いは「悲しみ」について、今でもそれを記憶として語り表現することができる人間が、この世に存在するだろうか。

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そして、「物語」はさらに続く。驚くべきことに、パキケトゥスやアンプロケトゥスという一部の四足動物たちが、何を思ったのか、再び海に還る道を選んだのだ。彼らが、クジラやイルカたちの祖先になったという。彼らは、地上生活の中で「何か」に気づき、それで自発的に海に還ったのだろうか。或いは、彼らもまた、かつてのイクティオステガたちと同じで、「よわい動物たち」として、「つよい動物たち」に邪魔者扱いされ、或いは捕食され絶滅させられる恐怖にさらされ、それで仕方なく海に還るしかなくなったのだろうか。或いは、海へのつよい郷愁の念をもっていたために、地上生活に耐えられなくなって海に還ったのだろうか。或いはもっと単純に、彼らの生息地の食料が不足し始め、かつての海の生活の方がその確保に楽だということを思いついたのだろうか。

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このパキケトゥスやアンプロケトゥスたちの行動の「謎」については、誰もが関心をもつのではないか。なぜ、せっかく、魚から動物になれたのに、ふたたび魚と同じような存在になる道を選んだのか。陸上に存在することに恐怖があったとしても、或いはその他にも何か居心地の悪さのようなものを感じたり、或いは地上にやがて危機が訪れることをいち早く感じ取った等の理由で、それで海への帰還を決断したのだろうか。われわれ現代の人間は、なぜ、クジラやイルカを特別に愛したり、クジラやイルカに人間に似た高度な知性が宿っていると推測したり、特に平和な顔つきをしたイルカに特別の親しみを感じたりするのだろうか。

[11]

 人間はなぜ、山に登り天頂を仰ぎ見ることと同様に、海に潜ることも特別に愛するのだろうか。山も、海も、古来から人間には畏れと憧れが入り混じる崇拝の対象である。人間がクジラやイルカを「友人」と感じたり、彼らの存在に「癒し」を感じたりするのはなぜなのか。或いは、人間もまた、時が来れば、宇宙に進出するか、或いは彼らと同様に海への帰還を選択する運命にあることを無意識に悟っているため、それで、我知らず、彼らに先行者としての親しみを感じているのだろうか。

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そして、人間の祖先も、気づいてはいたが、しかし、あくまで陸上に残る道を選択したのだろうか。或いは、今ではないが、「いずれは」と思っているのだろうか。或いは、やはり、何も気づかなかったがゆえに、現在の姿があるのだろうか。「物語」は、ここから、さらに、次のように、私の「仮説」に基づいた物語として大きく展開される。

  人間は、近く、イクティオステガたちやパキケトゥスたちと 「同じ種類の冒険」をはじめる。

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人間は、「坐るための椅子」をデザインすることで、 サルとは違う人間としての特有の進化を決定づけ、新しい文化を誕生させた。私の「物語」では、魚・両生類・四足動物・鳥・サル・人間のそれぞれにおいて、それぞれの姿勢に応じた文化が存在するという、「姿勢は文化創造の母胎である」という「仮説」を採用している。つまり、文化とは人間の独占物ではない。そのために、「姿勢」が重要なキーワードになっている。

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人間は、二足歩行を完成させたがゆえに、「坐る」という行為の特別な価値に気づいた。そして、「坐る」という行為を支援するために、「坐るための椅子」の創造をはじめた。その気づきと創造が「人間としての特有の進化を決定づけたデザイン行為」として、特別に評価される。なるほど、「坐る」のは、人間だけではなく、サルも坐る。岩の上に。草の上に。木の上に。その他、あらゆる場所にサルも坐る。しかし、わざわざ「椅子」という人工物をつくり、その上に坐ったのは、人間だけである。

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「椅子」という人工物に坐る場合と、そうでない場合の違いとは、一体何か。それは、単なる坐り心地等の問題だけではない。それは、端的に、「椅子」という人工物の上に坐ることで、初めて人間が、自己の身体をモノにまで拡張し、拡張した先で「自然」と出会い、そのことで「自然」を、或いは「地球」を、自己の身体を含めて「客体視」できるようになった、ということである。この「客体視」の能力が、私の「百万の仮説の上に構成される一つの物語」では、サルと人間の間の決定的な差異をつくり出す。つまり、人間だけが、この「客体視」により、地上に生きる自己の存在を、同時に「外部の目」をもって見つめることが出来るようになった。その最初の成果が、「神」の発明であり、「宗教」の発生である。

  人間は、この「客体視」により、地上の生活者として存在しながら、同時に自分が宇宙にも観念として存在する者となり、この宇宙に存在する者が、地球に存在する同一の者を見つめはじめた。人間は、サルや他の動物とは異なる「心」を持つようになったのである。

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脳科学者の入来篤史(理化学研究所脳科学総合研究センター)は、「心」の発生について次のようなユニークな仮説を立てている。

  「様相が一変したのは、ヒトの祖先が、外界の事物を手に持ち、それを身体の延長として動かそうと、道具の使用をはじめたときでした。このとき、道具が身体の一部となると同時に、身体は道具と同様の事物として客体化されて、脳内に表象されるようになります。自己の身体が客体化されて分離されると、それを動かす脳神経系の機能の内に独立した地位を占める主体を想定せざるを得なくなります。その仮想的な主体につけられた名称が、意思を持ち感情を抱く座である心というものではないでしょうか。」(『脳研究の最前線』講談社 2007)

以上は、脳にとって、客体化されていない身体を動かすためには脳機能の拡張も人間的な「心」も必要ではなかったが、客体化された身体を動かすためには脳機能の拡張と人間的な「心」が必要になったという素晴らしい議論である。

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「椅子」という人工物に坐るようになった人間は、地球に所属していながら、他の動物とは異なる「心」をもち、地球の外部にも所属している。人間は精神において自然と一体ではなく、自分を自然から切り離して見る視線をもったのである。人間が、ふとした時に、急に淋しさを感じたり、或いはつよい郷愁の思いにかられ、自然への「帰還」に恋焦がれるのも、自然から切断されている自己を抱えたからである。自然と一体である者は、このような自然への「帰還」は必要としない。

人間が、宇宙について思索することに不自然さを感じないのも、人間の「もう一つの自己」が宇宙に存在しているからである。つまり、人間は宇宙に存在するもう一人の自分と出会い、対話しているのだ。人間は、このような「もう一つの自己」を、「神」の名で代表させ、或いは「大きな我」と呼び、地上の自分よりも「もう一つの自己」の方がより大きく偉大な存在であるかのように、その存在を敬いつつ生きてきた。

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この「客体視」の能力が、私の「物語」では特別な能力として注目される。その理由は、人類が今、科学技術の進展と過度な消費行動の功罪として、一方で地球環境の破壊を進めることになり、他方で宇宙への進出を現実に可能なものとし、こうして人類が宇宙時代という「新しい時」を迎え、「これから、人類として、どうするのか?」という、これまで存在しなかった問いを、かつてない規模と切実さで突きつけられるようになってきたからである。つまり、私の「物語」では、何よりもこの問題の解決のために、「客体視」の能力を戦略的に使用する。

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その為に、私はこれまで述べてきた一連の「仮説」の上に、更に次の「仮説」を導入する。

  人間が、「ポスト人間」に進化する為に必要な条件とは、宇宙を舞台として、0重力~1重力間における「新しい姿勢構築」を実現するために必要な「流体家具」をデザインすることである。「流体家具」の使用によって人間は「新しい宇宙文化」を誕生させることができる。

人間が、地上において「坐るための椅子」をデザインすることで新しい進化を決定づけたように、人間が「ポスト人間」への進化を果たすためには、宇宙において「流体家具」をデザインし、「客体視の能力」を最大限に利用して「もう一つの自己」をさらに強化し、新しい姿勢形成により「新しい宇宙文化」を誕生させることが必要、という「仮説」である。

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つまり、私たちは、「海に還ったクジラやイルカ」の状態を、無重力状態の宇宙に持ち込み、「クジラやイルカの祖先が陸上生活で気づいたであろう<何か>」について、その解決を、宇宙に移して行うのである。その「何か」についての解決は「宇宙で挑戦する仕事」として果たされることになる。

  パキケトゥスたちは「海」に還ったが、人類は「宇宙」にその思いを託す。

そのために私は、このようなこれまで発想されたことがない「新タイプの宇宙文化開発の方法」を考え、その方法を私自身を被験者として実践したい。それは何よりも、現在までの地球文化を宇宙に持ち込むだけでは「人類に未来はない」と私が考えるからである。

3 新しい家具を見たい

[21]

そして、このような開発の成果は、欲張りな人間としては当然のことに、宇宙に移住する前に、この地上においても、「宇宙からの贈り物」として、さっそく利用することになる。たとえば、今、「流体家具」の地上版として、「椅子でもあり、ベッドでもあるような、これまで存在しなかった不思議な家具」が登場したとする。その時、10年や20年前なら人びとが違和感を覚えたに過ぎないとしても、なぜか、この家具の方が既成の椅子やベッドよりも心地いいと感じるとするならば、一体何が起きていることになるだろう。それは、人間の感覚の変化に対する重要な「ひとつのサイン」になるのではないか。

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つまり、人びとは、「<立つ>と<坐る>の間の、また<坐る>と<寝る>の間に位置する新しい姿勢の創造」を求めはじめているのではないか。そのために、その新しい姿勢を可能にする「新しい家具」が必要になり、椅子とベッドの間に、より繊細で、よりなめらかな親和的なデザインを求めはじめているのではないか。

それは、デパートの家具売り場に行くたびに、「椅子やベッドの形は100年前といつまで同じなのか?」と思う疑問であり、また私たちの感覚も欲求も急激に変化している以上、それに対応して、「ひとつくらいは、これまで見たこともないような、まったく新しい奇想天外な家具が登場してもいいのではないか?」と願う希望である。

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そろそろ、新しい家具を見たい。人類が「坐るための椅子」をデザインしたのは、もう遥かに遠い昔のことなのだから。「椅子でもあり、ベッドであるような不思議な流体家具」が登場し、それをふつうの人びとが好むとすれば、この不思議な家具こそ、地球に新しい時代をもたらすに「宇宙からの贈り物」になるに違いない。

地上でも、新しい革命が、「多様な姿勢創造」という身体レベルから開始されることが可能なのである。かつて、日本の倉俣史郎が風変わりな椅子をデザインしたように。私たちは、今、かつての倉俣史郎のように、積極的に新しいタイプの風変わりな椅子を求めはじめてもいいのではないか。それも、新しい時代の要請として、倉俣が夢見た「重力からの解放」だけではなく、地球環境改善と宇宙文化創造を視野に入れた、「0G〜1G間の姿勢創造」を目的とする「新しい家具」の登場を。

4 ヒトはなぜ二足歩行を選択したのか?

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人間は、二足歩行により、空いた前足を自由にし、その前足でモノをつかむようになり、その効率を高めるために「親指」の構造を変化させ、それでもっと自由にモノをつかめるようになり、前足が「完全な手」になったという仮説がある。確かに、人間がこのような「器用な親指」を持っていなかったら、道具をはじめ、「坐るための椅子」などという高度なデザインも誕生しなかっただろう。

そして、人間の動きには、食料確保や危険を避ける等の生存の必要性だけではなく、動物たちとは趣向を異にする、客体視の能力に影響された、ある種の独特な「過剰さ」が含まれている。この「過剰さ」がやがて、人間的な本能に従った生活を超え、人間の世界に、スポーツや芸術を含めた多様な「動きの文化」というものを誕生させた。

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人間が動くのは、端的に「動くことが面白い」からである。それは、世界中で毎日人間がしていることを見れば明白だ。スポーツや、ダンス等の多様な身体芸術の誕生を見ても、よくわかる。スポーツの短距離走のように、なぜ人間は速く走ってみたいのか。なぜそれが他者に対して誇るべき行為なのか。或いは、逆に超スローで歩いてみたり、動きの美に点数をつけて競ってみたり、職人芸を競ってみたり、わざとバランスを崩して遊んでみたり。実に、子供から大人まで、人間はいろんな理由をつけ、多種多様な動きの形式を編み出し、動くこと自体を楽しんでいる。

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しかし、なぜ動くことがそんなに面白いのか? 
あらためて考えてみると少しもわからない。ふつうの脳科学者なら、この問いに「それは、動くと脳にドーパミンという快感物質が分泌されるから」と答えるかも知れない。しかし、この答えは問いをずらしているだけだ。「動くと、脳にドーパミンが分泌されるのはなぜか?」と問う必要があるからである。私は舞踏家として見当をつけてみた。

  それは、私が自分のダンスの中で発見したように、一つの動きは他の動きを自然に誘うからである。一つの動きの中で発見される楽しさは、その動きの中で閉じることはない。まるで見えない法則があるかのように、動きが動きを求めている。

その動きの連鎖は、無限の選択肢をもっている。そして、一つの動きには、一つ以上の記憶が対応している。そのために、ヒトは多様な動きの組合せで、多様な記憶の世界を再現できる。

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私は、これが、なぜ動くことが面白いかの本質的な理由ではないかと思う。「記憶の追跡」は、人間の普遍的欲求の一つであるからだ。「記憶の追跡」を、アタマの中ではなく、動きを通して、「より親密に、より広大な範囲で」追求できるとすれば、誰もがこのような「動きの世界」に夢中になるだろう。子供たちも、こんな体験がゲームで出来るなら大喜びで挑戦するに違いない。

そして、自分の動きの中に「ヒトとしての動きとは思えない動き」が混じっていることを発見した時に、誰もが、言葉では表現できないほどの「なつかしさ」に襲われ、その秘密に驚き、動きにはそれまで知らなかった「未知のステージ」が「既知のステージ」の裏側に畳みこまれていることに気づくことになる。私も、ダンスしている時、「この動きは、ヒトのものとは思えない」と感じる瞬間がある。そして、そういう時が特別に楽しい。

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人間は骨格の構造上、動物たちの動きの記憶を宿し、その記憶を脳が保存している。人間の脳も、爬虫類の脳、旧哺乳類の脳、新哺乳類の脳という、三層構造からできている。そのために、二足歩行する人間の動きとそうでない動物の動きの差も、人間は判別できる。

洞窟時代の人間は、地球の広大な地域において、洞窟の壁に「動物の顔をもつ人間」の絵もたくさん描いていた。動物に特別の親近感をもっていたからで、描くという行為が、何らかの文化的儀式のようなものになっていたにちがいない。

[29]

私の身体と脳の中にも、いろいろな動物の記憶が残されているはずだ。それを感じる時に、とても懐かしく、嬉しい気持ちになる。私はその楽しさをもっと追求したくて、わざと関節をずらし、新しい動きの工夫をする。ダンサーが本能的に「奇妙な動き」を試みるのも、そのためだろう。追求したい感覚が動きによってどのように広がるのか、どんな感情をもつのか、判断はそこに集中される。それは、ダンサーのひそかな楽しみになっているはずだ。人間として生まれてからの記憶だけではなく、魚・両生類・四足動物・鳥・サルの進化史を、動きの組み合せを通して辿ること。それが面白い。感覚を研ぎすませることで、両生類や四足動物やサルなどの動きを脳に蓄積された「動きのプール」から思い出し、再現することができるのだ。

[30]

しかし、何のために? そんな進化史を辿ることに何の意味があるのか? 私がそう問うたびに、私の内部の動物が私に「何か」を囁きかける。私は、その囁きを聞いている内に、その理由を、「生命の進化史にうまく所属しないと、人間の進化もうまく行かないから」と考えるようになった。それは、進化史をうまく辿れた時ほど、過去からのリターンとして、より新鮮な「人間の次の動き」を与えられる気がするからだ。

[31]

したがって、すぐれたダンサーという存在も、 このリターンの振幅の大きいダンサーであるに違いない。すぐれたダンサーは、ひどく懐かしい存在であると観客に感じさせると同時に、誰も見たことがない動きの世界を美の世界としてつくり出す。そうだとすれば、観客がダンサーに求めるものも、単なるダンス技術の優劣ではないこともよく理解できる。リターンの振幅の大きいダンサーとは、観客を思いがけない動きの世界に誘う者であり、その動きによって動物たちの姿も再現させ、つよい郷愁に誘う者である。

[32]

人間が最初の二足歩行に成功した時、その人間は、どんな思いで立っていて、どんな思いで歩いただろうか。それは、月面に到着して最初のムーンウォークを成し遂げた宇宙飛行士たちの思いと、何が似ていて、何が異なっているだろうか。

人間の動きには二足歩行を開始した頃の記憶も、動物たちに対する記憶も含めた膨大な記憶が宿り、人間は毎日そのような動きを、多様に、無意識に選択して、それぞれの行為を組み立てている。その関係から、人間は何かあるたびに理由もなく「なつかしさ」を感じたり、「なつかしさ」にまつわる趣向をひそかに「美」や「祈り」の体系として育てたり、そしてその趣向が知らない内に人間の一人ひとりの「個性」を、他と異なったものとして形成することに役立っている。「個性」とは、考え方などの知的な相違だけではなく、このような行為の無意識の選択の違いからも来ている。

[33]

私は、人間が最初に二足歩行に成功した時の歓びを味わってみたい。そして、大地の上を自由に移動しはじめた時、身体を動かすためにどんな苦労をしていたのか、その経験を反芻してみたい。おそらく、たった一歩を踏み出すためにも、信じられないほどの苦労と新しい発見があったにちがいない。それを知ることができれば、現代を生きる人間が失くしたものが何であり、進歩したものが何なのか、もっと感覚的に知覚できるのではないか。

  私の目の前を、一人の身体障害者が、何度も休みながら、ゆっくりと歩いていく。その姿の何と感動的なことか。彼は、たった一歩を歩くためにも、必死で、全身の筋肉を使い、首をひねり、両目をつりあげ、両手を広げて空に差し出し、顔にはたった一歩でまるでひとつの大きな山を越えたかのような満足そうな表情を浮かべていく。

私には、このような身体障害者による歩行こそ、二足歩行をはじめたばかりの頃の人間を想像させるとして行為として、日常生活の中で行われるダンスそのものであり、「二足歩行の奇跡」を体現している素晴らしい例に思える。私も、舞踏家として、このような歩行からダンスを始めたい。私たち人間は、「忘れてしまった動きの全体性」というものに触れた瞬間に、いまでも我知らず深い感動に襲われてしまう存在であるようだ。

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