第二章

第二章 『舞踏とは何か?』

〜舞踏は、「二足歩行の奇跡」を体感し、大地に感謝するための「宇宙からの贈り物」〜

1 舞踏の誕生と展開

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1970年、私が大学の学生だった時、三島由起夫が東京・市ヶ谷の自衛隊に乗り込み、割腹自殺を遂げるという衝撃的な事件が起きた。そのニュースを深夜のテレビで見た時、私は大学をやめて東京に行き、舞踏を学ぼうと決心した。当時、多くの大学生は大学というシステムに疑問をもち、そしてなぜか「人間は身体を失っている。われわれは身体を探さなければならない」と考えるようになっていた。なぜなのか? 当時の私たちにはその理由がわからなかった。

東京に行った最初の日に、土方巽の「暗黒舞踏」の公演を見た。次の日に、大野一雄と笠井叡と若いダンサーたちが出演していた「即興舞踏」の公演を見た。私は「即興舞踏」を学ぼうと決めた。なぜなら、大野一雄と笠井叡と若いダンサーたちが、高度なダンス技術を持つ者もそうでない者も、全員が大変に明るかったからだ。その明るさが私の胸にしみた。身体をもつ存在である事を、何の資格も必要なく、心から楽しめているように見えた。ここに新しい自由があり、新しい希望があると感じた。始めてみて、私の予感は正しかったと確信できた。

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私が舞踏を学ぶ前、大学闘争に参加していた或る日、千葉県の三里塚に行った。成田空港建設に反対する運動のためだった。こちら側には、私たち全国の大学から集まった2000人ほどの学生たちと、その隣に500人ほどの年寄りも含めた三里塚の農民たちが並んでいた。向こう側には5,000人ほどの機動隊が並んでいた。これから双方が衝突するのだ。機動隊に向かい走っている最中に、私は「死」を恐れ、怖じ気づいている自分に気がついた。隣の農民たちを見ると、怖じ気づいている者は一人もいない。皆が大地を踏みしめ、地響きがするように怒りに満ちた凄い表情をして勢いよく走っていた。

  この差は一体何なのか? 私は一瞬のうちに理解した。農民たちには守るべき「土地」がある。学生にはそれがない。当然だった。守るべき「土地」がある者は「死」を恐れない。私にも「土地」が必要だ。

大学闘争は私には「死」をかけられる対象ではなかった。それが三里塚で明白になった。「恐ろしい死」は回避したい。「美しい死」ならつき進める。この恐怖感から、私は大学に戻り、自分の土地探しが始まった。そして出会ったのが舞踏だった。舞踏には私の「土地」があり、それが私の「身体」だった。

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2006年にノーベル文学賞を受賞したトルコの作家オルハン・パムクは、日本文化がもつ独特な可能性について、「中国や日本には西洋画に対抗できるつよい絵画の伝統があった。しかも、日本は西洋画の影響を受けつつ、日本独自の新しい近代絵画を生み出した」と書いていた。

舞踏も、オルハンが評価する近代絵画と同様である。舞踏は、1960年代の日本で、江戸時代までに存在していた日本の伝統的身体所作と現代ダンスを融合するものとして、土方巽と大野一雄により「暗黒舞踏」が創造され、土方の弟子だった笠井叡により「即興舞踏」が創造された。つまり、この現代ダンスとは日本がドイツから輸入したルドルフ・ラバンやメリイ・ヴィグマンによる表現主義舞踊であり、土方が写真家・細江英公と組んだ写真集『鎌鼬(かまいたち)』により、舞踏が最終的に確立された。舞踏は輸入品に日本的味付けをして再創造したダンスであり、日本の近代絵画と同様に日本のオリジナルではない。

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舞踏は1959年の公演『禁色』から出発した。それまで学んでいたモダンダンスの学校から劣等生のレッテルを貼られた土方と大野の二人が、その評価に反旗を翻す形でスタートしたのだ。そのため、モダンダンスを含め体制から顰蹙を買うものが総動員された舞台である。そこには「猥雑な裸体」があり、「首を切られた鶏」があった。世間から大きな注目を集めたため、日本のモダンダンスがマイナー芸術であったのに対し、舞踏は一挙に新聞・テレビ等のマスコミに登場するメジャー芸術になった。いわゆる、三島由起夫につよく影響された「肉体の反乱」の開始である。

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しかし、このような舞踏も、当時の「身体の復権運動」の一つで、美術・演劇・音楽等の他の前衛アートと同列にあり、舞踏だけが傑出したものではなかった。舞踏が特別に台頭できたのは、欧米の批評に影響されたからである。欧米には舞踏のようなダンスがなく、その独創性が注目された。国内では唐十郎・寺山修司・鈴木忠志・佐藤信たちによるアングラ演劇が舞踏と共に流行していたが、演劇は海外の眼からすれば「シェクスピアの息子」に過ぎなかった。それは、バレーダンサー・森下洋子が国内では人気が高く特別に評価されていても、本場のモスクワに行けば子供扱いされるのと同じ事情である。

ひとり舞踏のみが、浮世絵発見というジャポニスムの再来として、海外の批評に熱烈に評価され、海外の眼によって発見され、「舞踏の台頭」が約束された。舞踏の国内でのピークは1976年の土方作品『鯨線上の奥方』であり、1977年には土方の演出による大野一雄の伝説的作品『ラ・アルヘンチーナ頌』が初演された。そして、1978年には土方の一番弟子・芦川羊子がパリで踊って熱狂的に迎えられ、舞踏の最初の海外進出を成功させた。

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 そして、このような舞踏にも転機がやってきた。土方は『鯨線上の奥方』の後、7年間沈黙した。そして、7年後、『東北歌舞伎計画』をもって土方は復活したが、作品の評価は高くなく、癌も発病し、1986年に57才の若さであっけなくこの世を去った。そして、土方の死から3年もしない内に、国内では舞踏の衰退がマスコミでも報じられるようになった。

舞踏は、海外で生き延びたのである。それを担ったのが大野一雄・アリアドーネの会・山海塾等であり、彼らの世界の大都市での活動を通して多くの外国人舞踏家も誕生し、外国人舞踏家たちが日本に学びに来ることで、第一次舞踏ブームが形成された。私が1990年に国際交流基金の後援でパリやベルリンで公演できたのも、海外での舞踏ブームのお陰だった。

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しかし、国内で舞踏が衰退した理由は何だったのか。私は、海外で活躍する他の舞踏家たちと同様に、海外では評価されても、舞踏を生み出した肝心の日本では無名になっていくという皮肉な文化現象を生きることになった。

私は、舞踏家を続けるためには「国内で舞踏が衰退した理由」を正確に究明しておく必要があると考えた。それで、舞踏の衰退について認めようとしない舞踏グループからは離れ、当時日本の知性を代表する評論家の一人として見なされていた吉本隆明に依頼し、このテーマを巡りシンポジウムで対談した。吉本は、端的に、「土方が採用した身体モデルは、日本人の原形の身体にまで遡及できるモデルになっていなかった」と指摘した。土方が残した「舞踏譜」に疑問を感じていた私は、この吉本の批評を目から鱗が落ちる思いで理解した。

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1985年、土方の最後の作品『東北歌舞伎計画』では、若いダンサーたちが芦川羊子と共に踊っていた。しかし、若い彼女たちの腰は不安定で、神業的ダンスを見せる芦川羊子とは素人眼にも一目瞭然の圧倒的な差があった。つまり、若い世代の身体は土方の身体モデルによる「舞踏譜」には馴染まない。「舞踏譜」は、身体がヨーロッパ人並みに八頭身になった若い世代に継承されるものではなかった。『東北歌舞伎計画』が成功しなかった理由も、「身体が変化してしまった」という、この単純理由以外には存在しないだろう。熱狂的歓声に包まれ「土方神話」を形成したかつての土方作品の上演ではあり得ないことだったが、観客はこの作品を楽しめず、途中で帰る観客たちも多かった。

つまり、土方の身体モデルは人工的なもので、あらゆる日本人に適用できる「普遍的モデル」ではなかった。『東北歌舞伎計画』で若い世代のダンスが無様だったのは、彼女たちの責任ではない。土方の身体モデルが、土方の時代にしか通用しない特殊モデルだったからだ。「国内で舞踏が衰退した理由」はここにあり、私を含め、戦後生まれの世代には土方の身体モデルは古かった。従って、私たちに残された仕事とは、「普遍的モデル」が存在するとすれば、それを探し出すことである。或いは、そもそもそのようなモデルなど存在しないとすれば、身体に対する発想を根本から変更することである。

2 舞踏とは何か?

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私の「舞踏の定義」とは、次のようなものである。

[42-1]

舞踏とは、「内部からのステップ」である。

[42-2]

舞踏とは、各人の個性に根ざした、自前のダンステクニックによる身体芸術であり、「直接的な自己表現」である。

[42-3]

舞踏とは、「野性の回復」であり、現代世界において失われた「陶酔する身体」の復活である。

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舞踏は、自己の身体を受容する限り、年齢・国籍・性別に関係なく、誰でも踊れる。舞踏は日本で誕生したが、柔道や合気道のように外国人の舞踏家も増えており、日本人に限られたダンスではない。

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舞踏の楽しみ。それは「一瞬で世界に対する感覚を一新する喜び」である。自分と他者の区別がなく、あらゆる世界、あらゆる場所、あらゆる動物とあらゆる植物に「一体」として繋がっているという至福の感覚を味わうことができる。

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舞踏とは、「年齢と共に成熟するダンス」をつくる身体芸術である。能の「花」のように、舞踏にも「時分の花」と「秘すれば花」があり、舞踏家は年々に成熟する美を創造できる。

[42-7]

「年齢と共に成熟するダンス」を創造することも、「21世紀ダンス」の大きな課題である。そのために、舞踏では、美の概念を拡張し、身体を受容すること、ムリをしないこと、ならうべきモデルを持たないこと、自前の世界観をもつことを教える。

3 「国際舞踏」の可能性

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いま世界中で、第一次舞踏ブームとは異なる、第二次舞踏ブームと呼ぶべき現象が起きている。第一次舞踏ブームとは、端的に言って外国人による日本の舞踏の真似の世界だったが、第二次舞踏ブームとはそうではなく、国籍に関係なくより個人の内面に即した「新しいダンスの世界」として形成されつつある。だから私はこの数年、機会がある度に「国際舞踏」の可能性について考えている。早く「国際舞踏」が成立して欲しいと思う。第一次舞踏ブームを形成した日本の舞踏の真似も依然として第二次舞踏ブームの中に混じっていることも確かだが、新しいタイプの外国人の素晴らしい舞踏家もすごい勢いで増えているため、それも夢ではない。舞踏は、日本人舞踏家によった暗黒舞踏と即興舞踏の違いを超えて、新しい領域にジャンプすることが可能である。

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舞踏とは「内部からのステップ」であり、その効果は日本人だけに限定されるものではない。私が体験した例では、トルコ人現代ダンサーのオジャイ・カラハンがユニークだった。彼女はかつてロンドンの有名な舞踊団でトップダンサーの一人として踊っていた。しかし、原因不明の理由で次第に精神に支障を来たし、或る日突然、ダンスをやめ、舞踊団に説明もしないまま一人でイスタンブールに帰国してしまった。そして、その後5年間、何もせずに家に引きこもっていたという。

そして、或る日突然、再度、ダンスを始めたいと思い、偶然私がイスタンブールで開催していたワークショップに参加した。事情を知らない私は、彼女のダンスを見て驚いたことを今でも印象深く覚えている。明らかに高度なダンス技術の持ち主であることを感じさせながら、彼女はまともに踊ろうとせず、真直ぐに歩くことからから外れ倒れ込むという動きだけを執拗に繰り返していた。私のクラスに参加した理由を尋ねると、「舞踏なら自由にやれると思った。心の回復のために、自分のダンスのために、私は完璧な自由を欲している」と彼女は答えた。実際、その通りで、舞踏なら、何をするも、何をしないも、本人が決めればよく、100パーセント自由だ。彼女も、ただ自分が追求したい感覚だけを追えばいい。ワークショップの最後の日、まだ誰も見たことがないような独創的ダンスを始めた彼女を見て、私は泣いた。舞踏を通して、彼女が必要なものを手に入れたことを私は理解した。

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しかし、このような可能性をもつ舞踏に対し、現在もなお日本人舞踏家だけがリードするなら、舞踏をより広汎なスケールで発展させることは出来ない。たとえば、柔道の世界では、1964年東京オリンピックの無差別級でオランダのヘーシンクが金メダルを取ってから、柔道界は一変した。柔道における「日本神話」は崩壊し、海外の柔道家たちが柔道のメッカである日本の講道館に柔道を習いに来るのではなく、ヘーシンクのところに習いに行くようになったからだ。こうして、「国際柔道」が始まった。つまり、ヘーシンクの登場により柔道は「国際柔道」という豊かさを手に入れたのである。

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私は、いま舞踏は「国際柔道」と同様の可能性をもっていると考えている。しかし、日本人の舞踏家が外国人の生徒に日本人の特徴的な身体の使い方を教え、彼らもそれに満足している限り、それは手に入らない。そうではなく、彼らは彼ら自身の方法を彼らの「文化的身体」に基づいて開発する必要がある。私たちは、各国或いは各民族が長い歴史の中で継承してきたそれぞれ固有の「文化的身体」をもっており、毎日それに従って身体を動かしている。日本人が知るものは日本人の「文化的身体」だけであり、他国の「文化的身体」についてはわからない。従って、舞踏の生徒は彼らが属する「文化的身体」を自力で発見する必要があり、その時にのみ、真の「多様性」が出現し、真の「舞踏の豊かさ」が実現される。

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私には、バンジェリンもヘーシンクと同様に見える。彼女は、ニューヨーク在住のフランス人舞踏家。外見からすると、彼女の舞踏も暗黒舞踏の真似のように見えるかも知れない。しかし、中身はまったく違い、その外見もよく見れば日本の舞踏の真似ではないことがよくわかる。最近、CNNが彼女の素晴らしいドキュメンタリー番組を制作した。まさに彼女はフランス人で、美に対するセンスに優れ、日本の舞踏家が真似ができないオリジナルな美の世界を描いている。同じ「愛」を描いても、日本映画とフランス映画では表現される「愛」の質がまるで違うのと同様だ。そして、彼女の舞踏に対する熱の入れ方は日本的に言えば「求道的」で、その姿も多くの人びとを惹きつけている。そして、このバンジェリンのところに多くの日本人が舞踏を習いに来ているのである。彼女は、私には「国際舞踏」を可能にする女ヘーシンクの一人のように見える。

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