第12話

■目次

[序]
心改造ゲームがはじまった [第1部] 【第1話】 スペーストンネル少年少女学校 【第2話】 現実(四次元時空)と異界(五次元時空) 【第3話】 ノアとアスカ [第2部] 【第4話】 王女の夢、電脳サイト『イスタンブール』 [第3部] 【第5話】 異界の住人たち~キベ・タナ・エレナ 【第6話】 メタトロン軍の野望と戦略 【第7話】 エックハルト軍の『ヒト宇宙化計画』 【第8話】 アトム4世~ヒトを愛せるロボット 【第9話】 宇宙の花計画~破壊される月 【第10話】 エリカ攻撃と、イカイとエダの情報戦争 【第11話】 ノア、脳回路を使い分ける 【第13話】 大家族の出現

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【第12話】 電脳恋愛の光と影
1 電脳恋愛塾

私はエリカ。もうずいぶん長い年月を生きてきた気がする。 あまり長生きすると、自分の年齢はほんとうに忘れてしまうし、自分が女なのか男なのかわからない時もある。私は、若い時に人生のピンチに陥ったことがある。自殺未遂もした。でも、イカイと出会い、私の人生は一変した。イカイとの愛が私を救ってくれたのだ。愛の力がこんなにも大きいことを、私はその時に体験した。それ以来、私には、もちろん大変なことも沢山あり、最近ではエダの問題でイカイも私も大変なことになっているけど、基本的には楽しいだけの充実した人生が続いている。有り難いことだ。

私の仕事は、スペースチューブ・チューブロボット・秘書ロボットの3点セットを世界に普及させること。そして、イカイを手伝って『ヒト宇宙化計画』を成功させること。でも、そんな硬いテーマにだけ首を突っ込んで生きてきたわけでもない。私のもう一つの仕事は、電脳恋愛の光と影を描くこと。対象は「恋愛」。そのために、世界中から私を頼って集まってくる若い女たちのための塾もやってきた。最近はこの塾も大きくなり、忙しくなっていたところだ。彼女たちの悩みも、時代につれて複雑になっているし、悩みが解決されるとは限らない。それでも、彼女たちに直に接していると、自分の若い頃を新鮮な気持ちで思い出せるし、世界の動向についても感覚的につかめる気がするので、とても有意義だ。 それで、イカイから、いよいよ『ヒト宇宙化計画』の第2ステップが開始されるということで、私の塾を『電脳恋愛塾』として『ヒト宇宙化計画』の中に組み込むように要請された。光栄なことだ。恋愛も人間の普遍的テーマの一つ。もちろん、私は喜んで引き受けた。塾は私の個人的楽しみでやってきたけど、これからは『ヒト宇宙化計画』の一部として、男と女の「愛の技術」を高めることに貢献してみたい。どんな社会でも、その社会を動かすのは人間の欲望だ。だから、ここまで秘書ロボットのような人間の心に介入する技術が進んでいる時に、「愛の技術」も進化しているのかどうか。その実態を調査することは重要だ。調査の結果は、『ヒト宇宙化計画』推進に必要な基礎資料の一つとして役立ってくれる。 そもそも、スペーストンネルが開発され、人びとがロボットスーツを着用し、秘書ロボットをうまく使いこなすようになってきた現代におけるコミュニケーションの改革とは、一体何か? 結局、どんな変化が生じているのか。私は次のように考えてきた。 「動物とのつき合い方」が変わった。 「ロボットとのつき合い方」も変わった。 人間は死者や異星人ともつき合うようになった。 そのため、ミュニケーションの相手は人間だけではなくなり、「戦争の方法」も変わった。 「愛の技術」も変わった。 大きな変化は、この五つに集約されると私は思う。どの一つをとっても、それが革命的変化であることは間違いない。 人間にとっては、どんな場合にも、他者とのコミュニケーション能力に秀でることが最大の課題だ。愛の場合には、相手がどんな対象でも、相手を理解し、自分を理解し、相手と一体化すること。恋愛の場合には、愛するがゆえに、相手から最も遠い地点に離れることが必要なこともある。私の場合で言えば、メグミさんが、イカイを愛するがゆえに、死を選んだこと。そして、私の心に登場することで、イカイとの再会を果たしたこと。愛する人から離れることは辛い。それでも、幸運に恵まれる場合には、以前よりも関係が深まることがある。 どんな場合にも、自分を磨くことが重要になる。徹底的に自分を磨くこと。そして、自分の成長を楽しみ、相手の成長を楽しむこと。そうして、相手との一体化を図ること。一体化とは、魂と魂の結婚という心の問題だけではなく、具体的にも、相手が自分に役立ち、自分が相手に役立つという二つの関係を成立させることだ。これが、他者が存在する世界での人間の永遠の課題だ。一体化こそ、生きる喜びなのだ。だから、人間は、いつになっても一体化の仕掛けが大好きだ。そして、今では、一体化すべき相手が、人間だけではなく、動物や、ロボットや、死者や異星人にも拡大されというわけだ。 人間は、有史以来、ほんとうに苦労して、一体化の仕掛けを工夫してきた。そして、一体化の技術は、いつも恋愛において最高の高みに達する。 いまでは、世界中の多くの男と女が、お互いの秘書ロボットを携帯電話を操るように自由に操り、脳に侵入してお互いの心を読み合い、影響を与え合っている。そして、ハッキングにより、実際に相手の身体を動かしてみたり、自由に自分の姿を変えて相手の夢に出現したりして、より魅力的な出会いの可能性に挑戦している。 成功すれば、すごいことになる。 しかし、失敗すれば、惨憺たる結果を招く。 過去のどんな時代にも増して、相手から深く感謝されたり、反対に相手を深く傷つけることになる時代。その差は微妙だが、決定的な差になって現れる。なぜそんなに相手に感謝されることになるのか。本人にもわからない場合が多い。逆に、相手が望まないことをやってしまった場合には、深く恨まれることになる。だから、こんな恋愛の世界では、相手に対する繊細な配慮と、慎重な技術がますます要求される。巧妙な技術をもつ者と、未熟な者。その差は大きい。その結果、一方では、聞いたこともないような奇妙な失敗例が山のように積み上げられていく。他方では、輝くような美しい愛の物語が生まれていく。 以下の5つのケースは、私が塾で相談を受けたそれらのわかりやすい例である

2 秘めた愛

私の塾に相談に来たある女の場合は、「秘めた愛」だった。 彼女とその男は、高校生の時に恋人同士だった。しかし、青春の出来事としてよくあるように、つよく惹かれ合っていたのに、ささいなことに傷つき合い、ケンカして別れてしまった。こんな年頃は、小さな事件もまるでそれが世界全体のように感じてしまうナイーブな時期だから、仕方ないのかも知れない。そして、二人は偶然に、同じ会社の廊下ですれ違い、違う部署に属する者として稀な再会を果たした。そして、二人はお互いにいまでも好きなことに気がついた。しかし、どこにでもよくあるように、それぞれ家庭もちで、その家族を愛していた。 そのため、二人は、電脳空間の中での愛に限定し、現実への露出を完璧に避けた。誰も気づかない関係をつらぬいたのだ。昼休みには、同じビルの2階と3階のフロアーから互いの秘書ロボットを送り合い、脳に刺激を与え、秘書ロボットによる会話を成立させた。深夜になれば、お互いの家の自室に閉じこもり、パートナーや子供たちが眠った後に、ここでも秘書ロボットを送り合い、脳に刺激を与え、秘書ロボットによるつかの間のセックスを成立させた。こうして、二人は昼も夜も会い、その姿をそれぞれ仮想メガネで見て楽しんだ。恋愛はもともと二人だけの閉じた世界を形成することだから、誰にも知られないこのあり方も本望だった。 恋愛で大切なことは、二つの心が美しく通じ合っていることを、二人がお互いに確認できることだ。その点について二人には問題はなかった。二つの心の通じ合いは完璧だった。性愛は仮想体験だが、感覚面では充分に満たされていたから、かえって現実のセックスの制約に縛られないという利点もあった。二人は既に40代が近づいていた。そのため、高校生の時のはちきれるような若さから遠ざかったお互いの肉体について、気にせずに済んだことも助かった。年齢に制約されないということは、老後になってもこの関係を続けられることを意味する。それに、電脳空間の中の二人の秘書ロボットは、若い男と女の肉体のままだった。だから、このまま、この愛の形を持続させることができるのだ。それなら、これ以上何を不満を言う必要があるだろう? しかし、やがて、最初に彼女の方から心配事が出てきた。彼との愛が高まるほど、どうしても夫や子供に対する罪悪感も高まってしまう。 彼に打ち明けると、彼も同じ心配を持ち始めたという。それは、秘密を持っているという意識で長期間生活していると、やがては罪の意識にとらわれ、苦しさのあまり、どちらかが先に周囲に告白してしまう可能性があるという心配だった。彼女の心配は当っている。一人だけで秘密を守る場合はまだいい。しかし、二人で秘密を守っていかなければならない場合、生活環境が違うのでお互いの間に疑心暗鬼の思いが生じることは仕方のないことだ。そこで、私は、次のようなアドバイスをした。

二人とも、ジキルとハイドのような二重人格者のような振る舞いをすること。 それで、自分たちが罪を犯しているという事実を忘れてしまうこと。 「そんなこと、出来ますか?」と彼女が聞いた。 「出来ますよ。人によって程度の差がありますが」 「考えてみたこともありません」 「完全に出来なくても大丈夫。少なくとも、その努力をすればいい。それで罪の意識は和らぎますよ」 「ほんとうですか?」 「ただ、その時に問題になるのは、あなたも彼も、ほんとうに罪を犯していると感じているのかどうか」 「どういうことでしょう?」 「あなたの場合はどうですか。夫を裏切っていることは、あなたにとってほんとうに罪なのかしら? それとも?」 しばらく考え込んでいた彼女は、「ほんとうは、どうして私が悪いのか、わかりません。運が悪いとしか言いようがない。夫が嫌いになったわけではないので。ただ今も彼を愛している自分を発見しただけなのです」と答えた。 「わかったわ。あなたには罪の意識はない。夫にわからないように、彼との関係を続けたいのね?」 「そうだと思います」と彼女は答えた。 「それなら、あなたはジキルとハイドのまねが出来ます。かなり完璧に」 「私が罪の意識を感じている場合は?」 「その場合は簡単ではないわね。でも、忘れたふりは出来ます」 私の経験では、こういうケースで本当に罪の意識を持っているかどうかは、50パーセントづつ。ただ、罪の意識を感じない場合でも、裏切っている相手に対する配慮は大切なので、それは可能な限りする必要がある。 「とにかく、大切なことは、今一番必要なことは何かをはっきりさせることね」 「家庭も守り、彼との関係も守りたい。その為にどうすればいいのか。それを教えて欲しくてここに来ました」 「家庭を守りたいあなたがジキルで、彼との関係を守りたいあなたがハイド。ジキルとハイドはお互いの存在を知りません。あなたの本心に変化がないなら、あなたには出来る。あなたが感じている現在の罪の意識は仮のもので、吹き飛ぶはず。彼にも相談してみてくださいね」 「実は、もう彼には聞きました。私と同じ気持ちだそうです」 この二人のケースでは、二人とも罪を感じていない。だから、秘密の恋愛をしているという意識さえ消せればいい。それで、彼女の夫と彼の妻を傷つけることもなく、二人の関係を続けられる。こういう努力をしているという事実が、二人の絆をさらに高めることにもなる。 「ただ・・・」 「ただ?」 彼女が怪訝そうな顔をしている。 「もう一つ聞いておきたいのは、その恋愛は秘密だから余計に盛り上がっているのかしら? 例えばセックスも、秘密で罪の意識に溢れていた方が快感がつよいわね」 「私も彼も、もう快感にはこだわっていないです。セックスは淡白でいい。大切なのは、心が繋がっていること。毎日、愛し合っていることを確認できるのが嬉しい。それだけで私はしびれてしまいます」 「それなら大丈夫ね。というのも、ジキルとハイドのまねがうまくなると、不倫をしているという事実を忘れてしまうので、セックスの快感は減少すると思う」 「私は、それでちっとも構いません。彼も同じだと思います」 半年後に彼女から連絡があり、二人ともジキルとハイドの生活が軌道に乗り、二人の家庭もうまく行っているとのこと。もちろん、それでも、周囲から祝福されることがない「秘めた愛」であることに変りはない。二人とも、愛を公にしていい立場にあったならこんなことはしていない。 私が評価したいのは、この関係が罪かどうかの議論はさておき、この苦しくも秘められた経験が二人の「絆」をさらにつよく育てているという点だ。「絆」を育てることも愛の大きな目的の一つ。二人はその目的を果たしている。二人の自我は、人間としても成長しているのではないかと私は思う。二人の秘書ロボットの技術レベルも高いため、二人の愛の交歓の光景はどんなハッカーにも破られることがなかった。それは厳重にロックされ、今後も周囲の関係者に暴露される心配はないはずだ。

3 遠隔恋愛

しかし、電脳恋愛には光もあれば影もある。 ある女は、恋人と「遠隔恋愛」を試みていた。女は東京に住み、男はパリに住んでいた。二人とも会社勤めのデザイナーで、二人が会えるのは、仕事が忙しいこともあり、それぞれがバリと東京に行く年2回だけ。その為、毎日お互いの秘書ロボットを送り合い、一週間に一度は秘書ロボットを通じてセックスしていた。しかし、女の技術が未熟だったため、予想もしなかったトラブルに見舞われることになった。相手にするものが脳に受け取る情報と刺激だけの電脳恋愛である以上、注意しないと大変なことになるという好例だ。 つまり、ある時、女は、恋人との交際の記録を会社の同僚の男に知られてしまった。うっかり、会社の自分のパソコンにその映像の一部をダウンロードしたのだ。女は、仕事中でも、寂しい時にその記録を見たくなり、記念写真を見るように見ていた。女に好意をもっていた近くの席に坐るその男は、女と毎日仕事上の連絡を社内ネットワークでやり取りしていた関係で、それを偶然、自分のパソコン上で見た。男はこれはチャンスと喜んだ。セキュリティもいい加減だったため、女のパスワードも簡単に手に入れた。 そして、或る日の夜、女の恋人の秘書ロボットが女の脳に来ていないことを慎重にチェックした上で、自分の秘書ロボットを女の脳に送り込み、女の恋人の姿に変装して女と会うことに成功した。女には、それが偽装であることを見破る技術がなかった。女は、その男に誘われるままにセックスした。そして、その後もしばらく、その差を判別できないまま関係を続けてしまった。このように、自分の相手ではないのにそう思って貴重な時間を過ごしてしまう男と女の滑稽な悲劇が、最近急上昇中なのである。

脳は快楽原則に従って動く。 脳は、自分に気持ちがいい刺激を与えられれば、それで充分。 真実であるかどうかに脳は関知しない。 だから、要注意。 今あなたを抱いている彼が、あなたの彼であるとは限らない。 脳の判断と、意識の判断は、たびたび食い違う。 要するに、自分の体験だけに酔ってはいけない。電脳空間で恋人と会う時には、恋人の仮想メガネに映っている映像も自分の仮想メガネに転送すること。相手がホンモノなら、そこにも二人の秘書ロボットが抱き合っている姿が映っている。相手が映像の転送を拒否する場合には、その恋人はニセモノ。その映像を確認しても、まだ違和感を感じる場合には、直接恋人に連絡し、確めること。高度な偽装の場合には、その転送映像も偽装されている。でも、恋人に連絡すれば、真相は明白だ。 女が恋人に行動を正すタイプの女であれば、その態度やセックスの仕方もいつもと違うことについてもいちいち確認したはずで、こんなことは起きなかっただろう。しかし、女は、男の積極性を喜んで受け入れる古風なタイプだったこともあり、その行動について恋人に問うことはしなかった。気づいた時には、もう遅かった。 恋人もやがて事実を知り、二人の間には亀裂が生まれた。女も深く傷ついた。恋人は関係を清算したいと言ったが、それだけは待ってと、あなたが必要と、女が必死に頼んだ。恋人の方でも女に未練があるようで、何とか関係は回復された。 しかし、しばらくすると、今度は女がひどい不安に襲われようになった。恋人の本当の気持ちがわからなくなってきたのだ。恋人は本当に自分を愛しているのか。女は、恋人から冷たいものを感じるようになっていた。結婚するためにも、女はそれを知りたいと思った。 恋人は、若手売り出し中のデザイナーで、一見してまじめなタイプ。しかし、女はそれは見かけに過ぎないことを知っていた。恋人は女好きで、過去にもいろんな女がいた。現在も複数の女とつき合いはじめた気配があった。恐らく、隠しているのだ。しかし、女には、気が弱いため、恋人に直接聞く勇気がなかった。聞いたとしても、ほんとうのことを言うはずがないと思った。だから、女は、秘密の作戦として、恋人の身体に直接聞いてみることにしたのだ。 それで、女は、自分の友人の中から恋人が好きになりそうなタイプの女を選び、内緒にするということで、その友人に恋人とセックスするように依頼する事にした。女は、まず、秘書ロボットを恋人の脳に送り、友人の姿を取って、夢の中で恋人を誘惑した。そして、女は、恋人の反応から友人に関心をもったことを確かめた。次に、女は、恋人が東京に出てくる日、その夜の得意先のパーティーに参加するように頼んだ。一方で、得意先は友人の会社でもあるため、友人にもパーティーに参加し、酒に酔わせて恋人を口説くように頼んだ。そして、当日になり、女は仮病を使い、自分だけパーティーに行けなくなったが、商談を兼ねているため重要との理由で自分の代理としてパーティーに行くように恋人に頼んだ。女は、一人でアパートに残り、仮想メガネで恋人の様子を検証することにした。もちろん、本心では、恋人が友人を拒絶することを期待していた。 しかし、恋人は、女のたくらみに気づいていたが、知らないふりをして、友人に口説かれ、誘われるままにホテルに行き、セックスを楽しんだ。女は、その時、恋人の脳を秘書ロボットを侵入させてしきりに調べたが、性感帯が通常の反応を示しているだけで、恋人が何を考えているのか、わからなかった。恋人が後悔することを期待したが、そんな反応も恋人の脳から読み取ることは出来なかった。 その夜、遅くに恋人は女のアパートに帰ってきたが、恋人はパーティーの様子を報告しただけで、何も言わなかった。次の日、女は恋人とセックスしたが、いつもの通りで、恋人の様子に変化はなかった。秘密なので、恋人がパリに戻る日になっても、女は恋人に聞くことは出来なかった。女は、恋人の気持ちがますますわからなくなった。 そして、1ヶ月が過ぎた頃、逆に、恋人が女にこの話題を持ち出した。「君は、僕を、ひどいやり方で、試したね」と言って女を責めた。もともと気の弱い女は、さらに弱くなった。女は、いい加減な男とは別れるとキッパリ言ってみたかったが、ますます言えなくなった。恋人は、自分から攻めることで心理的に女の優位に立ち、以前にも増して身勝手に振る舞うようになり、女を思いのままに支配した。これでは、二人の間に信頼関係は育たない。 私は女に聞いてみた。 「あなたは、友人とセックスした時の恋人の気持ちを今でも知りたいの?」 「知りたいです」 「馬鹿げてるわ。男はただ楽しんだだけよ。それも、悪魔になったような気分でね。男はあなたが死ぬほど心配していることを知っていた。だから、そんなあなたを裏切ることで、快楽を倍増させた。それもあなたをバカにしながらね。でも、あなたも知ってると思うけど、男だけがこうなんじゃない。こういう時は、女も同じよね。というか、女の方がもっと残酷」 「世間でいう悪い女のことですね?」 「そうね。悪い女。悪い女は徹底して自分の性を楽しむわ。あなたの彼の場合は悪い男。でも、悪い女も悪い男も、別に大した存在じゃないわ」 「どうしたらいいのでしょう?」 「だから、簡単。いくら大変でもね」 「つまり?」 「男に、あなたなど本当は目じゃないと告げること。思い切って、あなたの方から男から去ること。そうすれば、そんな男の愛の魔力など一瞬で効果を失うわ。だって、男のやり方はあなたの弱さを利用しているだけだから。大したことないのよ」 「去るなんて、私には出来ません」 「男の弱さを知ったら、あなたも行動できるわ」 「彼は弱くない。すごくつよい」 「女の弱さにつけこむ男は、全員が弱いのよ。つよい男はそんなことはしない。だから、彼の弱さを読み取り、それを彼に宣告すれば、彼は驚くわ。予想もしていないから」 「でも、私は彼にあなたは弱い男なんて言えそうもない」 「言えなくていいのよ。ただ、突然、去ればいい」 「突然ですか? でも、すぐに彼の秘書ロボットが追いかけてきます」 「それは大丈夫。あなたが返答さえしなければ、秘書ロボットにもあなたの居所はわからないわ」 「そうですか」 「思い切ってやってみたら?」 「たしかに。それは彼にも思いがけないことだと思います」 「そんな男には、思いがけないことが必要なの。彼がショックを受けたら、それが彼がまだあなたを当てにしている証拠。少し我慢していれば、彼があなたを探しにきて、自分から結婚して欲しいと言い出すかも知れない」 「ショックを受けなかったら?」 「その時はその時ね。一度自分から行動できたあなたは、もう以前のあなたと違っているわよ。あきらめて、別のもっといい男を捜せばいい。要するに、まだあなたが負けているとは限らないということ」 「わかりました。とにかく、やってみます」 私の判断では、この男はただわがままにやりたいだけ。弱い男の典型。だから、恐らくは、この女を必要としている。結婚したいのは女よりも、男かも知れない。いずれにしても、女が去れば、男の本心が現れる。女は、男の本心を掴まなければ、利用されるだけ。本心を掴み、その上で注文をつけ、男を支配すること。それが女の「愛の技術」の勝利だ。こんな技術は、別に『電脳恋愛塾』に固有の技術でも何でもない普遍的なものだけど、現在も大きな力をもっていることに変りはない。

4 洗脳

「洗脳」にも多様な形式が現れた。

本来、恋愛とは、自分の魂を自分の心の外部に放出し、相手に差し出すこと。 それは、自分を相手に与えたいとつよく望むからだ。相手も同じ。だから、二人の恋人の間には二つの魂が無防備のまま存在することになる。恋愛では、相手の魂を焼いて食べるも、煮て食べるもまさに自由。愛することも、傷つけることも自由。どちらかに悪意が発生すれば、それは容易に行使される。思いを踏みにじられた時の被害が大きいのは、魂が無防備のままでいるからだ。だからこそ、間違った相手と恋愛すると大変なことになる。そして、途中で間違ったことに気がついても、もう遅い。これが恋愛の魔力だ。人は恋愛に嵌ったら、誰もこの魔力から逃げることはできない。何度痛い目を見てその危険性について学習しても、役に立たない。何度でも、人は同じ過ちを繰り返す。 塾に相談に来た高校3年生の女は、体質的に巫女的な感覚をもち、或る程度の洗脳の力をもっていた。それで、この恋愛の魔力も利用し、自分を好きだと言って何度もセックスしたのにその後は冷たくなった担任の若い先生に対して、秘書ロボットを使った洗脳を試みた。担任の先生は、本当は今でもその女が好きだったが、浮気者で他にも若い恋人を持っていた。女と問題を起こすことで、関係が学校に公けになることを恐れていたのだ。 或る日、女は、こんなケースでは極端な方法が必要と考えて、「先生が好きです。先生も私を好きと言って抱いてくれたのに、今では知らん顔。教室でも、廊下ですれ違っても、先生は私と目を合わさない。もう限界です。先生は、私が卒業したら結婚してくれると言った約束を忘れたのね。辛くて、もう生きていられません」という真実とウソが混じったような手紙を書き、親と、担任の先生と、クラスのお喋りな友人と、学校の校長宛てに送った。そして、死には至らないことを計算した上で睡眠薬を飲み、自殺を図った。女は救急車で病院に搬送されたが、すぐに回復し、命に別状はなかった。翌日の学校では、お喋りな友人から女が自殺未遂を図ったことが知らされ、その原因が生徒の担任であることも暴露され、大騒ぎになった。 こんなことをされては、担任の先生もたまったものではない。事態収拾のため動く必要があった。しかし、確かにセックスした相手なので、結婚の約束などしていなかったが、どんな釈明も周囲に対して説得力をもつとは思えない。担任の先生は途方に暮れた。そして、この状態を、洗脳の力をもち心の駆け引きがうまい女は待っていた。 2日後、まず女は、秘書ロボットを彼の脳に侵入させ、「私です。先生は今でも私が好きなのよ。先生は言えないだけなのよ」というメッセージを送った。案の定、彼の脳では大きな反応が起きた。女にはそれがわかった。彼のように動揺した心の動きを読み取ることは簡単だった。 次に、冷たくなった原因が新しい恋人がいることを掴んでいた女は、ふたたび秘書ロボットを彼の脳に侵入させ、彼の新しい恋人の姿を取り、誘惑した。反応があったため、今度は洗脳の力をこめ、実際に男を動かし、夢遊病に近い形で男に自分と本当のセックスをさせた。男にとっては新しい恋人とのセックス。実際にはその女とのセックス。男は弱っていたため、通常では出来ないことが通用した。そして、ひそかにそのセックスの様子を撮影し、その映像を男の新しい恋人に送りつけた。それを見た恋人は、傷つき、男を責め、男から去った。男は、恋人とセックスしたはずなのに、なぜこんな映像が流されたのか理解できなかった。 そして、味をしめた女は、次の作戦に出た。男を操作できると過信した女は、今度は男の脳に送る像を新しい恋人の姿から自分の姿に入れ替え、その変化にも男が疑問を持たないように男に対する洗脳を試みた。女にしても、自分とセックスしているのに新しい恋人のとセックスと男に思われている関係は耐えがたかったからだ。そのため、男に告白してしまった。実際に男がセックスしたのは自分なので、自分を受け入れて欲しいと頼んだ。 さすがに、男は、この女の像を見た瞬間に、すべてを理解した。男は、それは拒否し、女が何をしたかを学校に訴えた。騒ぎが大きくなることを恐れていた学校は、男と相談し、女には処罰を下さず、男を他校に赴任させることで事態を丸く収めた。後ろめたさを抱えてしまった女は、何も出来なかった。 女は、せめて、最初のステージだけで我慢すべきだった。或いは、最初から、自分の像を送り、気長に気に入ってもらえるような努力をすべきだった。すぐに効果がなくても、彼に役立つことを探し出し奉仕していれば、いつかチャンスが巡って来たかも知れないからだ。 私は、相談に来た女に言った。 「あなたはバカよ。せっかくの洗脳力をうまく使えていない」 「どうすればよかったのですか?」 「あなたは、担任の先生に別の恋人もいたけど、あなたの事も好きだったことを掴んだわけでしょ?」 「はい。ただ、先生は臆病で、二股をかけていることを私に知られるのを恐れていました」 「あなたは、その点をつき、先生を攻撃してしまった」 「そういうことになります。辛くて、もう待っていられなかったから」 「私なら、先生があなたをまだ好きという点だけに絞って洗脳の力を使うわね。だって、あなたを好きという事は、あなたに直に心に侵入されたらとても弱いわよ。あなたの洗脳の力が有効に働くなら、あなたはしっかりと先生の心を握れたはず。先生は、あなたのことも好きなので、拒否できない。あなたはそこであなたの愛をもっと訴えればよかった。現に、あなたの侵入に対しても先生は大きく反応したじゃない」 「たしかにそうです。でも反応したのは、先生が弱っていたからだと思います」 「よく考えてごらんなさい。あなたが先生を攻撃しないで、他の女のことも責めないで、ただあなたの愛だけを訴えて先生に優しく接していたら、気の弱い先生はどうなるか」 「私のことをもっと考えてくれたかも知れません」 「そうして、先生の魂を握った上で、先生にあなたとその女とどっちを選ぶか選択させたら、効果があったと思わない? もちろん、多少は先生を脅してもいいわよね。先生もずるい人だから」 「どんな?」 「やわらかく、先生が私を選んでくれないなら本気で死ぬわ、くらいで」 「効果がありますか?」 「あるわよ。先生は臆病だから。それに、もう一人の女は、先生があなたとも関係があることを知り怒って去ったわね。でも、あなたは、先生に他の恋人がいることを知っていたのに、先生に愛して欲しかった」 「たしかにそうです」 「男はそこまで愛してくれる女に、とても弱いわ。それに、人生はいい時ばかりじゃないから、誰だって本当に頼りになる相手が欲しいわね。あなたはその最大の候補として残ったはず」 「私が先生を愛し続けることで、先生を取り戻せたということですね?」 「その可能性が高かった。あなたが自分の洗脳の力をもっとうまく使っていたらね」 「わかりました。今からでは、もう遅いですか?」 「先生が困っているなら、ムリじゃないわね。先生のことが本当に好きなら、まだチャンスがありそうね」 「トライしてみます」 恋愛した相手と再会した時に心が大きく動揺する場合には、自分の魂がまだその相手の前に差し出されたたままになっている可能性が高い。このような魂は、相手が自分の魂を自分の心に収めてしまっている場合には、ずっと宙に彷徨ったままだ。自分一人では回収できない。相手の協力が必要なのだ。 彼女の場合、魂が憧れで一杯で大きく外に飛び出しているわけだから、早い時期に先生に会いに行き、先生の心を確かめる必要がある。もう次の女と遊んでいたとか、愛するに値しない男であることがわかれば、気持ちも自然に冷め、魂も戻ってくる。反対に、今でも彼女が好きで、彼女が来てくれるのを待っていたとすれば、二つの魂はめでたく合体できる。彼女の洗脳の力は、その合体の堅固さと美しさをつくるために使われるべきだろう。

5 複数の愛

人間の意識が進み、多様なコミュニケーションが重要視されるようになった現代では、恋愛の世界でも、男と女の一対一の関係を至上とする恋愛は「古典的な恋愛」と呼ばれるようになった。そして、少数派とはいえ、男と女がそれぞれ複数の恋人を持つ「新しい恋愛」も登場するようになり、それまで存在したことがない多くのトラブルが発生する一方で、恋愛とは何かについて、また複数の人格とは何かについて、世間に大きな議論を巻き起こすことになった。

ある女は、自分も複数の恋人と付き合いたいし、自分にもそれが出来ると思うようなった。それまで、女は、一人の男とつき合っている時はその男だけを愛し、その男にだけ尽くして、他の男には関心を示さないことを「よし」として生きてきた。しかし、或る日、ネットで電脳恋愛ゲームを経験した時、自分には複数の人格が存在すること、その人格に応じて自分の考えも好みも違っていることを知った。それはショックだった。そして新しい発見でもあった。そんな結果が出るのは10人の内の1人という1割位の確率で、決して多くはないという。それでも、このゲームは有名なゲームで社会的に信頼されていたし、女は自分に違和感を感じていたこともあり、その結果を信じた。 それで、本当に自分に複数の人格が存在するのかどうかを確認したかったかったこともあり、それまでの恋人の男Aの他に、男Bとも恋人として付き合ってみることにした。それで自分が変化するのか知りたかったのだ。実際に、女は男Bにも惹かれていた。但し、もちろん、男Aには内緒で。幸い、女の電脳恋愛の技術も高かったので、男Aに自分の脳の変化を読み取られることもなかった。こうして、女は、3ヶ月ほどの間、男Aと男Bを同時に愛し、女は自分が飛躍的に豊かになった気がした。自分の人格も、男Aと一緒の時にはこれまでと同じ人格Aで、男Bと一緒の時にはこれまで知らなかった新しい人格Bに変化するように感じた。そのため、その関係はうまく行くように見えた。 しかし、別の日に、男Aから、男Aも他の女も恋人にしたことを告白された。女はそれを聞き、嫉妬し、逆上して、「そんなこと、絶対に許せない!」と叫んでしまった。自分でも同じことをしているので、理性では理解できた。しかし、感情が許さなかった。当然、男Aがそれでは納得するはずがない。実は男Aも女が他の男とも付き合っていることを知っていて、ずっと我慢していたのだ。それで、認めないなら別れると男Aに言われ、悩んでいるという。 私は、彼女に聞いた。 「あなたは、二人の男とつき合うようになって本当に自分が豊かになったと感じたの?」 「はい。それはもう。豊かになったし、自分を取り戻せた気がします」 「それなら、恋人のことも許せるわね?」 「私も許したい。彼も私のしたことを認めてくれていたから」 「でも、感情では許せない?」 「はい。どうしても」 「でも、彼も我慢してきた」 「我慢してくれてたのは嬉しいけど、でも私は我慢する関係は好きじゃない」 「あなただけは我慢したくない?」 「私だけじゃなくて、彼にも我慢して欲しくない」 「じゃ、別れるしかないわね」 「そんな。彼と別れたら元も子もなくなります。彼が一番大切な人だから」 「もう一人の彼も大切なの?」 「もう一人の彼は、私の中に住むもう一人の私が求めている人」 「あなたは、二人の自分を満足させたいのね?」 「そうだと思います」 「そんなに大きなことを、何の犠牲も払わないで手に入ると思うの。甘くない?」 「私もそう思うので、相談に来ました」 私は女に言った。 「複数の恋愛」の喜びは、 複数の相手を恋人として楽しむことだけじゃない。 感情的には受け入れ難い複数の相手の欲求を受け入れることで、自分の自我を大きくすること。 その喜びを知ると、どんな苦痛にも耐えられる。 「自我を大きくする喜びって?」 「あなたはまだわかっていないよ。自我を大きくすることが、あなたが望んでいる複数の人格をもつということなの」 「同じことですか?」 「同じことね」 「私は、自分が単なるナルシストかも知れないって、怖くなります」 「あなたはナルシストじゃない。ナルシストには自分の利益だけが重要で、相手に苦痛を強いても平気。あなたのように悩まない。ナルシストには、自我の拡大が最大の楽しみであることがわからない」 「でも、私は、具体的に、どうすればいいのですか?」 「それは明解ね。あなたが彼を許すこと。もう一人の彼に対しても、許しを乞うこと」 「もう一人の彼にも?」 「当然でしょ? そして、その彼も複数の恋人を持つ場合には、それも許すこと。愛が、自分が相手の役に立つことでもある以上、相手を認めるしかないわね。それが我慢の結果でも」 「難しそう」 「やるしかないわね。あなたは自分の潜在的欲求を満たさないと満足しないわけだから」 「こつはありますか」 「それはありますよ。二人の恋人とも、ほんとうはもう一つのあなたの姿のことで、自分の分身と感じること」 「私の分身?」 「そうね。あなたの分身。分身なら、あなたにも大切よね。不可能でも、そう感じられように努力すること」 「やってみます」 「それではじめてあなたは自我を大きくし、複数の人格を手に入れる。でも、注意が必要よ」 「どんな注意ですか?」 「あなたの相手を務めることができる男は多くはないから。あなたのように複数の人格を持ちたいなんて女も少ないし、男も少ない。間違った男と関係をもっても不毛な結果が待っているだけ」 「私は少数派ということですね」 「そう。少数派」 「どうしたら、彼らが私の求める人だということがわかりますか」 「二人の恋人が、本当にあなたを許しているかどうか。あなたのやり方が彼らを傷つけていないかどうか。彼らもまた、あなたと同じように豊かになっているかどうか。それがチェックできた時。彼らの潜在意識にも侵入して慎重に確かめないとダメね」 「それが愛の証しなのですね。でも、その判定は難しいのでは?」 「すぐにはわからない。一定の時間が必要ね。表向きに言うことと内面で起きていることは違うから。でも、うまく行くなら、あなたは思いがけない人生を生きることになるわね」 「私は、これからは思いがけない人生を生きたいと思います」 今はまだ少数派だとしても、時代が進むほど、私はこういう女が増えていくように感じる。私自身は、「古典的な恋愛」でも、「新しい恋愛」でも、どちらでもいいと思う。肝心なことは、真実の愛を体験することだけ。だから、誰もが、自分の性格に応じて、自由に選択すればいい。 ただ、「新しい恋愛」が増えていくのば、愛の目標が一体化であり、その一体化すべき相手が人間だけではなく、動物や、ロボットや、死者や異星人にも拡大されている時勢にあっては、「新しい恋愛」がその為に必要な「複数の自我」を獲得しやすい、と思われるからだ。 そのために、「新しい恋愛」は時代を先取りし、時代の先端を走るモードになる可能性がある。私たちの自我は、受け入れるものが大きくなることで、自分も大きくなる。そして、自我が大きくなり他人事を自分事として感じる量を多くできる者ほど、豊かな人生を生きられるように思える。

6 合体

ある男は、死んでしまった初恋の恋人が忘れられずにいたところ、偶然にもその恋人にそっくりの女に出会った。これも、世界中のどこにでもある「よくある話し」だ。 幸運にも二人は恋に落ちた。 そして、男は、二人の関係が愛の関係として安定した後、初恋の恋人のことを話し、写真も見せて、女が初恋の恋人に似ていることを打ち明けた。その後、男は秘書ロボットで女の心に侵入し、初恋の恋人の記憶を移植した。そして、自分は記憶喪失者になったふりをして、女を初恋の恋人の名で呼び、初恋の恋人として扱いはじめた。女は、そんな男に対し、はじめはつよく反発した。しかし、男を深く愛するようになっていたために、なぜか男の気持ちも、男の死んだ恋人の気持ちも、理解できるような変な気分になってきた。そして、男の洗脳能力が高かったことが影響しているが、自分はその女なのだと錯覚する時も出てきて、自分でもその役を演じてもいいのではないかと思いはじめた。それで自分に対する男の愛がもっと深くなるというなら、考えてみればなぜ自分がそれほど自分にこだわる必要があるのか、その理由がないと思いはじめたからだ。 女は次のように考えた。

私の生き甲斐は、愛。 私と彼の愛を深めるためなら、私は何だってする。 自分さえしっかりしているなら、 私は男の初恋の恋人を自分の心に住まわせてもいい。 そうすれば、彼に無理強いされて演技するのではなく、 私の方で、自分がその女だと思えるようになるかしら。 それ以来、女は、男に初恋の恋人の名で呼ばれた時、「はい」と返事をすることにした。これが自分が選んだ演技であることを自分でちゃんと分かっていれば、構わないと思えたからだ。男は、女の変化を見て、「君の内部で、君と、僕の昔の恋人と、僕の大事な二人の女が合体をはじめた」と言って喜んだ。女も、この男の言葉で、男が私のことは私のこととしてちゃんと認識してくれていることを確認できた。 しかし、それから間もなくして、女に変調が起きた。精神に支障を来たしたのだ。女は、「私は、誰?」と男に訴えはじめた。女は、最初は理解してやっているつもりが、或る日を境に、何が何だかわからなくなってきた。女の内部では、男の元恋人への同化が本当にはじまってしまったのかも知れない。女は、男の元恋人になってしまうのか。男はそれを喜ぶばかりなので、真実を保証してくれる存在がどこにもいなくなった。 母親に連れられて相談にやってきた女に、私は言った。女は、小刻みに身体を揺らしている。目つきもおかしい。ここにやっとのことで来た様子だ。出来るだけ早く安心させてあげた方がいい。 「お話は、複雑じゃなくて、単純ね」 「どうして? 私はもう、混乱して気が狂いそうなのに」 「あなたは、今は、誰?」 「えっ? 私は、私・・・」 女が口ごもっている。 「その私は、あなた? それとも、男の元恋人なの?」 「それは、わからない・・・。でも、私は、私」 「あなたが自分を男の元恋人と感じる時、あなたの中であなたが反乱を起こすのよ。人間の自我は、そんなに弱いものじゃないわ。あなたがその元恋人になることは、永遠にあり得ない。あなたからあなたへの反乱に、あなたが答えてあげないから、あなたが行き場所を失った。このままほっておくと、あなたはほんとうに狂うわよ」 母親が何か言いかけたが、私はそれを静止し、女にだけ答えるように求めた。 「どうすればいいのですか?」と女は聞いた。 「最初に言ったように、お話しは単純。しっかりしないといけませんよ。複雑と思うと、混乱が深まるだけ。あなたがすべきことは、彼にあなたの振る舞いが演技であることを認めさせること。たったそれだけ。単純でしょ?」 「それだけですか? でも、彼は認めてくれるかしら?」 「認めないと、本当に私は狂うと、告げなさい。こんな話しは、あなたが演技としてやれる場合にだけ可能なの」 「頼んでみます」 「もう一つ。彼がここまであなたを追い詰めておいて、この先もその演技がまだ必要なのかも聞いてね。もう不要になったと言ってくれるのが一番いい」 「必要と言ったら?」 「あなたが考えて、出来ると思うならやればいい」 「わかりました。あくまで演技として」 「そうね。あくまで演技として。そうすれば、あなたの病気はウソのように治ります」 このような事例は、男の洗脳の力が強いか、女の自我が弱いか、どちらかの場合にしか成立しない。そして、成立しても、愛の事件としてどう評価すべきかは難しい。女は、たしかにそこまでして男に奉仕している。でも、その姿をもって愛であるとは言えない。男が女を愛しているなら、女を狂気に追いやるようなことを強いたりしない。男は、女を洗脳するのではなく、まずは自分の想像力を鍛えるべきだ。女には黙ったまま、女に元恋人の姿を重ねていけばいい。男が、女を元恋人と錯覚できればいいだけの話しだ。どうしても不足の場合にだけ、女に頼んでみればいい。男は、それをしていない。それで男は女を愛していると言えるのか。女を愛したのではなく、元恋人への執着だけが異様に膨れ上がっただけではないのか。 しかし、私の場合も、これとよく似たケースから始まった。 私はイカイに、イカイが大学生の時の恋人のメグミさんのことで苦しんでいる時に、偶然に再会したことになっていた。でも、イカイに話したように、それは偶然ではなかった。メグミさんと相談し、偶然の出会いを演出しただけだった。しかも、彼が傷ついていなければ私たちの関係が再燃することもなかった。あの時、私はイカイが陥っていた心の地獄から救い出したけど、それも私の心の中に住んでいたメグミさんとの共同作戦だった。 私の場合には、相談に来た女とは違い、私の人格の一部としてメグミさんを受け入れることがうまく行った。私には利害があり、彼女を受け入れることでイカイとの関係が回復することを知っていたからだ。 たしかに、相談に来た女の場合にも、男の元恋人を受け入れることで男との愛が深まるという利害があった。しかし、その作業は、男と女の二人による作業で、私の場合のように、男の元恋人に当るメグミさんと私との作業ではなかった。その点が違う。つまり、メグミさんと私との間には協力関係があったのに、男の元恋人と女との直接の接触はなく、元恋人は男によって女の脳に移植された記憶に過ぎなかった。それでは、メグミさんと私のような親密な関係は生まれない。男が元恋人を追想したかっただけで、元恋人の方でも男に会いたかったわけではなかったからだ。 もちろん、私の場合にも、疑問は残されている。もし、メグミさんがイカイに会いたくて私の心に住みついていたのではなく、メグミさんを私に送り込んだのがイカイの無意識だったとしたら? イカイは口では自分は知らないと言っていた。でも、無意識での出来事なら、イカイにもわからない。その場合には、私の場合も女の場合に似てくる。イカイは、死んでしまったメグミさんに、憎悪を含めて、つよく執着していた。だから、メグミさんの記憶をイカイが私に送り込んだ可能性は、否定できない。そういえば、私はその頃は注意していなかったけど、私とメグミさんの顔はよく似ているのだ。イカイが私をふたたび愛してくれたのも、私がメグミさんに似ていたからではないのか? もしかしたら、イカイは今でも、平和な姿を取り戻したメグミさんも含めて私を愛しているのかも知れない。たしかに、私の中にはメグミさんが住んでいる。そうだとしても、それでもいいと、今なら思う。若い時には自分の中に他人を受け入れるなんて、思ってみたこともない。なぜだろう? 私も永く生きてきたから、もう自分にこだわっていないのかも知れない。 私の中に、誰が住んでいてもいい。何人でも構わない。 だって、その方が豊かなことかも知れないから。 私はメグミさんが好きで、彼女が私の夢に登場することを拒否しなかった。妹か姉のように感じていたのだ。実際、あの時は私がイカイを助けたかも知れないが、後半生ではずっと私が助けられてきた。イカイは、私の知らない外部の世界についてよく知っていた。一緒に住むようになってから、私もイカイを真似て外部の世界での冒険に乗り出すようになった。でも私は未熟だった。私が危険な状態になった時、救い出してくれたのはいつもイカイだった。そのうちイカイが私の先生になっていった。それにつれてメグミさんもますます私の心の中に色濃く住むようになった。私にはそれが幸福だった。

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