4つの愛の物語(小説)

『4つの愛の物語』(小説) [抜粋] 
福原哲郎

■目次

第一話 『私はどうしたらいいの?/愛と冒険〜13歳のカオリ』
第二話 『私を超える/愛と性19歳のカオリ』

第三話 『一人さまよう、世界の旅へ/愛と政治25歳のカオリ』

第四話 『私の夫は天才だった/愛と死〜31歳のカオリ』

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第一話 『私はどうしたらいいの?/愛と冒険〜13歳のカオリ』


1  女の場合

ネットで、1人だけ、面白そうな男を見つけた。
年齢は48歳。職業は貿易商、だって。ほんとかしら? 年も48歳なんて、とてもそうは見えない。この写真がホンモノなら、もっとずっと若いよ。せいぜい35歳? ひょっとしたら30歳? 何か秘密がありそう。怪しいやつだ。

海外で仕事をし、日本と海外を行ったり来たりしているという。かなり得体の知れない男。「17歳の恋人求む」なんて宣伝広告を出してるヘンなやつ。広告を出すなんて、お金はあってもモテナイから? または少女趣味? 変態? 最近はおかしな変態も多いからな。17歳の女が欲しいなんて、ロリコンで身近な人たちに知られると困るのかも知れない。人に言えない秘密があることは間違いない。
でも、一体どんな秘密なの? この男の雰囲気は死んだお父さんと似てる。この男は面白いことをネットで書いてる。写真の顔はお父さんとは全然違うし、好みのタイプじゃないけど、こんな男とつき合うと私も新しい世界に出られるのかも知れない。

私の名前は鈴木カオリ。

隣の駅が、江戸川を渡ってすぐ東京都という、千葉県松戸市にお母さんと一緒に住んでいる。一人っ子。松戸は、田舎なのに、都会みたい。都会かと思えば、まるで田舎。ちょっとだけ奇妙な町だ。千葉県にはこんな町が多い。 どっちにしても、いま私が暮らしてる世界には、学校も、家も、町も、もう耐えられないよ。この世界が私を苦しめるというより、私にはほんとに何の魅力もない世界になってしまった。

  退屈。それも、死ぬほど。 私はもう感じるということがなくなった

感覚が麻痺したんだ。誰と会っても、何を見ても、ドキドキしない。ボーイフレンドの浩介や健太たちとの一年前からのセックスも、最初の頃はよかったけど、いまでは苦痛。全然感じなくなってしまったから。一体どういうこと? まだ若いのに。感じないことがこんなに人間を苦しめるなんて、知らなかった。こんな世界にいたら伸び盛りの私が腐っちゃう。私のからだの一部はすでに腐りはじめた気がする。最近何だかイヤな匂いがするようになった。浩介や健太たちに「わたし、最近変でしょ? からだ、臭くない?」と聞いても、何も言わない。私の錯覚なの? そうじゃない。私の質問に関わるのがイヤで面倒だから、何の返事もしないだけの事を私は知っている。

お父さんが生きていた時は、まるで違った。お父さんが生きていた時は、まだお父さんの背中の後ろの方で、何かが動いていた。それは光輝いていた。お父さんはいつも何か輝くものを連れていた。何だかわからないけど、それが魅力だった。でもそれもとっくに消えた。お父さんは去年死んだから。お父さんはもうこの世にいない。 そしてお父さんが死んだ途端に、すべてのものに魅力がなくなった。学校も、友だちも、男も、世の中も、すべて。世界から光が失われ、私は感じなくなった。何もしたくない。ただだるい。私は腐りはじめた。だから私は自分からこの世界を出ていくしかなくなったのだ。

お母さんはいい人だけど、とても私のことを理解していない。お母さんから見れば私はただの平凡な女の子でしかない。でも私のアタマの中には別の宇宙があって、ヘンな星が旋回している。見たこともないヘンな怪物が毎晩叫んでいる。私の知らない未知の力が私の内部で暴れたくてもがいているのだ。 彼らが、私に勝手に、聞いたこともない物語を私の耳元で囁いている。私と一緒に、新しい世界をつくりたがっている。その世界では私が女かどうかもわからない。そんなこともどうでもいいみたいだ。


最近よく奇妙な夢を見て、夜中に汗びっしょりで飛び起きるようになった。その回数がどんどん増えていく。こわいよ。いやだよ。夢の意味がわからないから。私はその意味を知りたい。でもわからない。わからない夢ばかりを見てると、記憶も失くして自分の過去から切断された気がするし、確実に自分が誰なのかわからなくなっていく。私は私じゃなくて、自分でも理解できない夢のための単なる器になってしまうからだ。
私は器なんかじゃないよ。私は私だよ。私はそんな夢なんかいらない。でも、夢に乗っ取られ、私が私じゃなくなっていく。一体なぜなの? なぜこんなことになるの? 私はおかしいのかも知れない。とにかく、眠れなくなった。
そして、セックスで感じなくなっただけじゃない。食べることがあれほど好きだったのに、食欲も失くした。食べることが苦痛になった。1年前には体重が48キロだったのに、昨日お風呂で計ったら40キロに減っていた。1年で8キロも減るなんて。食べないから仕方ないけど。お母さんも心配して、私の好きなものばかりつくってくれるようになったけど、効果はゼロ。何を食べるかではなく、食べること自体がイヤなのだ。
もしかしたら私はこのまま死ぬの? 或いは、変な夢のせいで私は狂うの? 死ぬのはいやだ。狂うのもいやだ。だから、私は夜がこわくなった。眠れないし、眠ればすぐにまた夢の続きを見るから。そんな夢はもう見たくない。苦しいのはそのためだ。どうすればいいのかわからない。それがわかれば私は助かる。

  誰か、私を、助けて! 
  私は心の中で何度も叫んだ。

  助けて! 助けて! 
  そして、泣いた。叫んで、泣いた

でももう疲れたよ。泣くのも叫ぶのも疲れた。誰も来てくれない。お母さんも、友だちも、男たちも、誰も私のことを理解してくれない。そんな人たちなんて、私からすれば存在しないのと同じだ。
何だか、私は、世界でたった一人ぼっちだ。
何でこんなことになったの? お父さんが生きていたらこんなことは決してない。お父さんが生きている時は私は安心していられた。そんな夢なんて見なかった。毎日が楽しかった。私は大きな門がある美しいお城でお父さんに守られて暮らしていたようなものだ。それが、お城が突然なくなったのだ。門もどこかに消えた。一瞬にしてすべてが消えた。ウソのように。世界ってこんなにもろいものなの? たった一人の人間がこの世から消えただけなのに。こんなことになるなんて。


お父さんはどちらかというと、ブスの男だったかも知れない。私はお母さんに似ていて美人だと言われている。でも人間は心のエンジンを失ってしまえば、そんな皮膚の表面の美なんて何の価値もなくなる。エンジンがなければ走れないし、生きられない。皮膚の表面だけで生きてる人間なんてどこにもいないんだよ。誰だって心の生活が必要なんだよ。人間は心で生きてるからだ。そんなことは私にだってわかる。心が満たされてなければ、どんな美人だって一瞬にしてゴミ箱行きだ。何の価値もない。ボロ屑。単なる肉のかたまり。醜いだけ。
私はお父さんが大好きだった。ゴミ箱に捨てられるのはまだ早い。私はまだとても若いんだよ。私はお父さんに会いたい。お父さんはブスの男だったかも知れないけど、魅力があった。もちろん、ネットで見つけた男が実際どれほどの男かはつき合ってみなければわからない。若い女のからだが欲しいだけのつまらない男かも知れない。でも、はずれたとしても、自分から動いただけの価値はあるはずだ。ひどい目に遭う心配もある。男に何をされるかわからない。でも、どんな目にあっても、いま私の周りにいる男たちよりはましだ。動かないよりはましだ。 動けば何かが変わる。きっと新しく始まることがある。

学校の先生たちも頼りにならないけど、浩介や健太たちもひどいものだ。何の頼りにもならない。いくら相談しても、私の心の中の空洞を理解してくれない。誰にも私が見る夢の意味がわからない。いま私のような女が何を考えいるかなんて、まるで関心がない。あいつらはセックスだけがお目当てで、あとは女に甘えることや、女を支配することしか考えていない。それも努力しないで女が手に入ると思い込んでいる。一度寝たらそれで女は自分のものだと考えたがっている。まるでバカだ。こんな世の中になったのに、そんな考えの男たちがまだ生きているなんて信じられない。間抜けな男たち。古い男たち。ほっておいても女が男を好きになったり、男が女を支配できるなんて、とんでもない間違いだ。そんなことはいまの時代ではもうなくなったのだ。男の役割なんて、これからはせいぜい女のための案内人になることしかない。でも勉強してないからそれも出来ない。女を支配するなんて、そんなことはもう諦めた方がいい。

男は女を理解することから始め直す必要があるのだ。女が何を考えているかを理解できて、何を悩んでいるのかもわかって、それではじめて一人前の男に戻れる。男は女を新しい世界に案内できなければダメなのだ。だから男はいろんなことを知ってる必要がある。好きになった女がどこに行きたがってるのか、大体でもわからないとダメだ。それではじめて女に尊敬されるようになる。いま男に必要なのは、女から尊敬をかち取ることだ。おそらく、お父さんがそうだったように。
お父さんは、女たちに尊敬されていたに違いない。私も男を尊敬したい。私の心の真黒な闇を理解してくれたら、私もその男を尊敬できる。それではじめて私も男を好きになれる。
お父さんはやさしかったけど、仕事で海外によく行っていて、日本にいる時とは雰囲気がまるで違う写真をよく家族に送ってきた。顔は同じでも、まったく別人だ。異国の風景のなかで笑顔をムリにつくっている。でも中身は笑ってなんかいない。
お父さんが家に帰ってくるたびに、私は注意深く観察した。お父さんが好きだから、どんな変化も見逃さない。お母さんはお人好しだから、お父さんがお母さんにむかってニッコリするともうそれでだまされてしまう。本当は何かを感じているのに、疑うことをやめてしまう。お母さんは単なる善人で、善人は疑うことを悪だと思い込んでいる。
私は違う。そんな笑顔ではだまされない。私は徹底的に疑う。疑いこそ、自分のアタマで考えていることの証しで、相手に対する誠実さだ。相手と徹底的につき合うという気持ちがあるからだ。だから少しあぶない質問もしてみる。


「お父さんは帰ってくる度に違う匂いがするけど、なぜなの?」

「そうか、どんな匂いだ?」
 
お父さんは、いつもこう言ってとぼけてみせる。

「わからないけど。お母さんはどう思う? 目つきも少しづつ変わってきたわ」


こういう時、お母さんは「そうかしら。カオリの気のせいよ」と言うだけで、私の話しに乗ってこない。何も気づかないというふりをしている。お父さんはニコニコしてるだけ。でも、お父さんには女の気配がいつもあった。それも一人じゃない、いろんな女たちだ。お父さんの仕事は貿易商だった。でも、扱っていたものは一体何だ? まさか、商品は女?
私は、お父さんは海外に恋人もいて、何か悪いことをしているに違いないと直感した。悪いこと? 悪いことって何だろう? お母さん以外に女をもつこと。人に危害を加えること。人間をダメにする発明をすること。戦争をすること。ふつうの犯罪ならわかりやすいけど。
たとえば新しい世界をつくることは、古い世界からすれば悪いことだ。少なくても古い世界の人には理解できないことだ。
お父さんのほんとうの仕事は何だったのか? 最近は日本の女が海外で人気があるので、女たちをドバイとかどこかの中東の高級風俗に売り飛ばしていたのか? でも、それならただの女さらいだ。そんな仕事ならまるで新しくない。
でも、お父さんは新しい世界をつくることに関わっていたに違いないのだ。だからお父さんはいつも緊張にふるえて、目もあんなに輝いていた。女たちもそれに惹かれてついて行ったに違いない。女たちもお父さんの背後の何か輝くものを見ていたのだ。
女をだます仕事。悪いこと。一体何だろう? 私にはまるでわからない。でも、新しい世界をつくる仕事だ。お父さんから新しい世界がはじまっていたのだ。だから、私はお父さんが好きだった。でも死んでしまった。もう私の目の前に現れることは二度とない。二度とお父さんに触れる事が出来ない。抱き上げてももらえない。ほっぺたにキスもしてもらえない。こんなに悲しい気持ちは生まれてはじめて。お父さんが死んでから、私の心の闇が大きく成長をはじめた。それを誰も止めることができない。

それにしても、この男にも、お父さんと同じような雰囲気がある。なぜだろう? 「世界に明日は来ない。つくらない限り。そのためには昨日をこわす必要がある。時間という怪物は空っぽにするために存在するのだ。人に頼んでもムダなことがわかったから、自分でこわすことにした。私にはできる。世界をひっくり返せる。そんなことは簡単だ。但し、そのために私には若い女が必要になった。私はいま、17歳の恋人募集中。謝礼あり」なんて、わけのわからないことをネットに書いている。世界を変えることと17歳の女と、一体何の関係があるのか。関係なんて何もないよ。
一体この男は何だ? この男に何ができるのか。謎に満ちている。何だか自信たっぷりだ。面白いやつ。変なやつ。
こういうおかしな事を言う男が楽しい。
お父さんもお酒に酔うと、私やお母さんや親戚の人たちをつかまえて、「明日があるのが不思議だ」なんて言っていた。「新しい世界なんて簡単につくれる」とも言っていた。この男と同じだ。だから誰も真剣にお父さんの話しを聞いていなかった。お父さんは周囲の人たちから酔うとおかしくなる男、と思われていた。
私だけだ。お父さんを信じていたのは。私には難しいことはわからない。でもお父さんの感覚は信じられる。 明日はつくらないと存在しないと、私だって思う。私たちが毎朝目が覚めて明日を今日として迎えることができるのも、きっと誰かがどこかで昨日をこわしているからだ。それは人が毎日死ぬことにも関係している。赤ちゃんが毎日生まれてくることにも関係している。世界は平坦な起伏なんかで成立していない。もっとでこぼこで、もっと乱暴で、空間も時間ももっと複雑に入り組んでいて、美しいドラマと残酷なドラマで満ちている。だから楽しいのだ。だから思いがけないことが世界の割れ目から起きるのだ。何でこんな単純なことを他の人は感じないのか? 
この男もお父さんと同じことを言っている。何か面白い秘密を握っているに違いない。とんでもないことをやっている可能性がある。早く会いたい。もっと知りたい。

でも、最大の問題は、私がまだ13歳になったばかりだということだ。
私はまだ13歳の中学生にすぎない。化粧して服を変えれば17歳に見えるだろうか。少なくとも15歳には見えるはずだ。いま世間の男たちが年齢の若い女子に魅力を感じていることは、テレビや雑誌で私も知っている。この男が私を気に入れば、私のからだも求めるに違いない。だって、「恋人求む」って書いてある。この男は女が欲しいのだ。恋人ならきれいごとのつき合いじゃ済まない。もっとドロドロだ。セックスも大事だ。 私だって本当はセックスが好きだ。それには自信がある。生理もとっくにはじまったし、私のからだの成長は早い。男たちの反応を見ても、私に女の魅力があることはわかっている。胸が透けて見える薄いシャツを着て短いスカートをひらひらさせて街を歩くと、男たちがじっと私を見ている。その視線は私とやりたがっているオスの目だ。私のからだは毎日オスの目にさらさられてキレイになった。乳房もお尻も、同じ年齢の子に比べれば大きい。腰も引き締まっている。肌も真っ白。男をその気にさせる女だとか、目つきと唇がセクシーだとか、退屈なボーイフレンドたちも保証してくれる。私は成長したのだ。
だから問題はあの男だ。
うまく騙せるだろうか。私のからだを「欲しい」と思うだろうか。「欲しい」と言って欲しい。 でも、何であの男は17歳の女にこだわるの? 私が13歳なのがバレて子供扱いされるのは絶対にイヤだ。私はもう子供じゃない。少なくても心は、そこらの女たちよりははるかに大人だ。
私はお父さんの死を通して「絶望」を学んだ。苦しかった分だけ、知恵もついて、別の世界に対する感覚も身についた。こんな私から男が逃げ出すなんて、耐えられない。男が逃げ出したら、私はまだ新しい世界の住人には相応しくないと宣告されたのと同じだ。私は男に振られたことはない。何人もボーイフレンドたちを振ってきたのは私の方だ。私は小さな女王さまだ。私にはプライドがある。
もし、あの男が私を子供扱いして私の事を笑ったら、それでも耐えられるだろうか?
もちろん、この男が見当違いの男だった場合は、私はすぐに別の男を捜す必要がある。バカとつき合ってこっちが傷ついている暇なんてないのだ。私はとても急いでいる。私の心の闇がどんどん大きくなっているから。早くしないと、私は闇にすっぽり覆われて、それで私の人生はおしまい。もう闇から出られない。どうしよう? うまくやる必要がある。
この男をうまく扱えるかどうかで、私の力が試される。 これは重要な仕事だ。
私はすごく緊張してきた。でも、久しぶりの緊張で、楽しい。そうだ、私は生き返ったのだ。私のからだセンサーたちも甦った。センサーたちがブルブルと震え始めた。急に食欲も出てきた。あぁ、マンゴーを、お風呂につかって一日中、死ぬほど食べたい。20個も30個も食べたい。マンゴーは私の一番好きな食べ物だ。

2  男の場合

僕の名前は篠原ヒロシ。48才。
僕はナミコが死んでいたことを知らなかった。懐かしく辛い思い出だ。ナミコは高校2年生の時の恋人で、同じクラスだった。ナミコが23才の若さで死んだことを、40才になった時に友人からはじめて聞いた。送られてきた校友会のクラス名簿で「斉藤ナミコ 逝去」という記述を発見し、地面がひっくり返ったようなショックを受けた。
すぐにその友人に会いに行った。
友人はにわかには信じがたいという目つきをして、僕に言った。
「えー、お前知らなかったのか? 嘘だろう?」
友人はほんとに驚いた様子だった。
「だってあいつと一番親しかったのはお前じゃないか」
「そうかも知れないけど。でも、知らなかった」
僕は大学を最初の1年で中退し、その後は海外に住むようになっていたので友人たちとの連絡も途絶え、ナミコがその後どうしているかも本当に何も知らなかったのだ。
「あいつが23歳の時だよ。病死。血の病気だったらしい。もちろん俺は葬式に行ったよ。当時の友人たちはみんな来た。お前だけ来なかった。子供が一人いたよ。5才の可愛い女の子だ。夫はいなかった。お前の子じゃなかったのか? もっぱらお前の子という噂で、俺たちもそう思っていたけど」 
大変な驚きだ。子供がいたなんて話しも何も知らない。調べてみる必要がある。僕に内緒で生んだのか? まさかそれはないだろう。5才だとすればナミコの18才の時の子だ。1年違う。僕たちはその時はもう別れていたはずだ。しかし、ナミコを最後に抱いたのはいつだったのか? はっきりとは思い出せない。
それにしても、23才で死んだなんて、つき合っていた17才の時からわずか6年後のことじゃないか。何ということだ。血の病気? 白血病か? 病気がちだったわけじゃないし、健康ではちきれそうな女の子だったから、とても信じられない。何かわけがありそうだ。

ナミコの事は、僕の青春の最大の過ちだ。
ナミコは文学少女で、声楽家をめざしていた。東京の音楽大学に進学するつもりだった。女としても、人間としても、僕よりずっと早熟だった。僕は、要するに、ナミコの早熟さに呑み込まれてしまった。セックスでも、ナミコは信じられないほど積極的だった。当時の僕は、肉体的なことより抽象的なことを求めていたので、僕は彼女について行けなかった。僕には彼女が美しい目をしていて、アタマがよく、キレイなからだをしているということだけで充分だった。だから僕は彼女を眺めているのが好きで、抱いている時間は長くはなかった。射精も一回のセックスで一度で充分だった。しかし、彼女はそうではなかった。17才なのに大人の女と変わらない。貪欲だった。何度も求めた。一度はじまると離れるのをいやがった。それで、僕は辛くなり、自分から言い出して、ナミコと別れてしまった。そして、大して好きでもない別の女の子を恋人にして、わざとナミコにその女の子と抱き合っているところを見せたのだ。
しかし、別れた後になって、大変な事になった。僕にも大学に入ってからいろいろ問題が起き、悩むようになり、人生について真剣に考えるようになった。それで、日本にいるのが嫌になり、アメリカのボストンに飛び出した。ボストンに母の親類がいて、ホームステイできたからだ。しかし、何かあるたびにナミコを思い出し、いま自分が考えていることをあの当時すでにナミコが考えていたことがわかった。
そういえば、ナミコはいつも本を持っていて、「この本読んだ?」とか、「あの映画が面白いわ」とか、「アフリカで毎日たくさんの子供たちが死んでるのを知ってる?」とか、「日本はつまらないわね」とか、よく言っていた。それで、ますますナミコが恋しくなり、何度も思った。 振った女を、後になってつよく思う。バカな話しだ。しかも23才で死んだという話を聞くまで、ナミコがどこかで生きていると思っていた。いざとなればすぐに会いに行けるし、実際に会いに行きたいと思い続けていた。それが僕の生きる希望の大きな部分を占めていた。僕の心の中では、ナミコを好きだという思いが渦を巻いていた。
それなのに、僕の思いは彼女の実体に触れることなく、この世をむなしく旋回していたわけだ。彼女はもうとっくにこの世の存在ではなくなっていたのだ。何ということだ。とても信じられない。 僕は、48才にもなった最近になってやっと、あらためて人生についていろいろ考えるようになった。やっと余裕が出てきたのか。そして、やり直しできるなら、17才のあの日の自分に戻りたいと痛切に願うようになった。

ナミコに対する思いが日に日につよくなるのはなぜだろう。いまやっている実験の影響なのか? 危ない実験だから、あり得ることだ。或いは、本当にナミコが霊になって僕を呼んでいるからなのか? 或いはナミコの子供のせいか? ナミコの子供は僕の子なのか?
あの日。冬休みに入ったばかりの寒い日だった。僕の高校は、富士山の麓にあった。朝から雪がふっていた。ナミコとのはじめてのデートで、一緒にスケートに行った日曜日だ。僕は有頂天だった。彼女も興奮している様子で、顔が上気していた。朝早く二人で電車に乗り、30分ほど乗った大きな街にあるスケート場に行った。電車の中で僕が「好きだ」と言ったら、ナミコも「わたしも好き」と言った。嬉しくてからだが熱くなった。行きも帰りも電車がすごく混んでいて、僕ははじめて彼女のからだに直接触れた。夜になり、駅から家まで歩いて送り、家の門の前で最初に抱き合った。記念の日だ。キスをした。熱いくちびるだった。胸に触れた。ナミコの乳房は大きくてやわらかかった。口も、胸も、その感触はいまでも鮮明に残っている。その時ナミコが着ていたビンクのセーターもよく覚えている。
その日以来、冬休みの間中、ナミコの家か僕の家で、毎日会った。毎日一緒に勉強し、親の目を盗んで抱き合った。そしてどんどん深入りしていく。まさに青春の日々。3学期がはじまって関係はさらにエスカレートし、片時も離れたくないという関係になり、学校の帰りも手を繋いで二人で帰った。その頃は高校生の熱愛カップルは地方都市ではめずらしかったので、学校中の評判になっていた。
そして、3学期も終わりそうになった或る日、ナミコは、「あなたの子供が欲しい」と突然言い出した。それまでナミコは避妊薬を飲んでいた。でも、もうクスリを飲むのをやめたいと言う。

「あなたの子供が欲しいの。いいよね?」
ナミコは真剣な目をしていた。
「え? いま何て言ったの?」
ナミコが祈るような顔をして僕を見ている。
「子供が欲しいの」
「僕たちの子供?」
「うん。私、落ち着きたいの。毎日どんどん楽しくなるけど、でも同じだけどんどん不安になるの」
「えっ、不安なの?」
「とっても」
「どんな?」
「ミシミシと音がして、心が壊れる感じ。痛くてたまらない。つらいの。耐えられないの」
その日から二人の気持ちのすれ違いがはじまった。単なる少年に過ぎなかった僕には、正直何のことかわからなかった。女は何でそうなるのか? 僕は落ち着きたいのではなく冒険をしたかった。同じ思いでいることが愛の証しと思い込んでいたので、僕には彼女の気持ちが理解できなかった。彼女も音楽家になり世界を飛び回りたいというつよい希望を持っていたはずだ。アフリカで子供たちのために働きたいとも言っていた。それはどうなったんだ?
「ナミコ、聞いて。高校生で、子供なんて、早いよ。僕たちにはその前にやることがたくさんあるじゃないか」
「でも、私は子供が欲しい」
僕が「理解できない」と言った時、ナミコはとても悲しそうな顔をした。
つき合ってから、ナミコのこんな沈んだ顔を見るのははじめてだった。ただ僕は彼女には自分と同じ気持ちでいて欲しいと思った。17才なりに、世界に対して燃えているつもりだった。子供をもつなんて、世界への窓が一挙に閉じる気がした。とんでもないことだ。僕は安定した場所に閉じこもりたいのではない。世界に出たいのだ。そう思っていた。
男と女は、ある時期を過ぎると、別々の立場で、別々の思いでいた方がいいことがある。その方が二人の関係がうまく行くことがある。そんな大人の知恵は当時は思いもよらなかった。今なら喜んで「うん」と言えただろうに。高校生カップルで、子供が出来ても、それで男の行動が制限されるわけではない。いくらでも工夫の仕方はあったのだ。

僕が「この女にしよう」と決めたのは、この女がナミコに一番似ていたからだ。
顔も、からだつきもそっくりだった。
「17才の恋人求む。当方48才。貿易商。新しい世界をつくりたい。私にはその力がある。しかし、そのために必要な相棒がいない。条件は写真の女に似ていること。謝礼あり。詳しくは面談で」という文面でネットの複数の出会い系サイトに書き込みを入れたら、1週間で全国から300人近くの返信があった。世の中はいま一体どうなっているのだ。何で若い女が僕のような中年男に関心があるんだ? 返信があってもせいぜい3~4人と思っていた。世の中には変わった女も少しはいるだろうということで。
最近の女たちは世界に飽きているのか。僕のような男にも興味があるのか。もちろん全部は信用できない。単なる金目当てや暴力団が裏にいるとか、危ないケースが混じっている可能性もある。
しかし、この女を選んで正解だった。
最初に会った日、カオリと名乗っていたが、ウソみたいにナミコにそっくりで驚いた。顔やからだだけではなく、特にしゃべっている時の相手の見つめ方が。 ナミコの目つきに僕はいつも誘いこまれた。カオリの目つきもいい。相手を引き込む力がある。それは男を誘うだけの目つきではない。
最初はカオリが適当なことを言っていると思いいい加減に話しを合わせていたが、聞いているうちにそうではないことがわかった。カオリが言うことは、この年頃の女からすればかなり変だ。若いのに、世界に絶望していると言う。毎晩おかしな夢を見て眠れないと言う。 夢の内容を聞いたら、注目すべきポイントがある。僕としても仕事がら興味深い。最後に、カオリは「ほんとうは、わたしは17才じゃなくて15才だけど、それでもいいですか?」と心配そうに聞いたので、「いいですよ」と丁寧に答えておいた。

どうせナミコとの関係を正確に再現できるわけではない。それに似たことがやれればいいのだ。17才よりもっと若いなら、その方がいい。 脳は、幼児期は使い物にならずにダメだが、若いほどいい。柔軟に新しい刺激に対応するからだ。実験の成果をうまく生かせば、ナミコとの関係に似たことをやれる。場合によっては、「それ以上の関係」に化ける可能性もある。つまり、カオリがナミコ以上のナミコになることもあり得る。ナミコは途中で人生の中断を強いられてしまった女だ。その分、僕の人生も中断している。その先がどうなるのか、ぜひともやってみたい。
少なくとも、いまの僕は昔の17才の時のひ弱な男ではない。女が何を言い出しても、もう驚かない。 おそらく、実験を通して面白いことがわかるだろう。
僕はこの女とならやれる気がした。意志も、意識も、つよくないとこの実験はつとまらない。或る程度進行すると、整理できないカオスが一挙に出てくるからだ。それに根気よく付き合える精神の力が必要だ。
これまで6人の女で試したが、6人とも途中で根を上げてダメだった。 カオリは7人目。この女は度胸がありそうだ。話しは聞いてみなければわからないものだ。見かけは、どこにでもいる普通の可愛い女の子に過ぎない。しかし、アタマの中はまるで違うようだ。
「私のアタマの中には古代の邪悪な怪物が住んでいます。私に触ると危険です。ふつうの男は退屈。もう飽き飽き」
カオリがそう言った時、正直驚いた。心が震えたと言ってもいい。こんな女が世間に埋もれているのだ。つまり、カオリの存在は世界はまだまだ面白くなるということの証しだ。
15才? 若すぎる? 年齢なんて関係ない。僕をその気にさせるかどうかだけが重要だ。カオリが気に入った。この女にはその才能がありそうだ。

3 脳さらい

男の要求を聞いて私は驚いた。
 朝10時に東京駅で待ち合わせた後、最初の日から、品川駅の前にあるホテルに連れて行かれた。「触らないで」と、私はちょっと脅しておいたけど、この男には効かなかった。男は私を簡単に手に入れた。私のからだに触り、抱きしめた。昔からつき合っている女に対するやり方だ。あまり自然なので抵抗できなかった。このホテルが東京の滞在先だという。金持ちが泊まる高級ホテルだ。 男は私を裸にしたまま、一日中無言で私とやりまくった。もちろんそれも予想していたので、何ともない。私も自分が知っているサービスを全部やってみた。嬉しそうにしていたから、私のテクニックも通用するのだ。男の要求は全部聞いた。変態じゃなかった。学校の制服を着たままがいいとか、ちょっとだけ少女趣味があるだけ。まぁ、それは17歳の女が欲しかったのだから当たり前か。制服の私に興奮するみたい。男は自分で制服を用意してきた。でも、どこで用意したのだろう、ずいぶん昔の制服なのでおかしかった。私は何も言わなかった。
実際、こんなセックスは何でもない。寝たからといって私の心は汚れない。私は何も変わらない。でも、本当の事を言うと一つだけ変わったことがあった。私は感じたのだ。つまり、長い間の不感症から解放された。それと、イヤということも何もされなかったので私は少しもこの男を警戒しなかった。お父さんに似ている気がしたから。でもそれで信用されたみたいだ。次の日にほんとうの目的を打ち明けられた。 とにかく、私からいろいろ聞いてみる事にした。無口みたいなので、私が黙ってると、ずっとこの男も黙ってる気がした。沈黙は怖いからね。このままだと、私はまた自分の心の闇に一人で彷徨ってしまうよ。

「あなたのしたいことって、まさかこれだけ? 目的は私のからだ?」
男がやっと口を開いた。別に無口じゃないみたいだ。
「もちろん、違う。昨日は男と女がふつうにやることをやってみて、君を試した。君についてもっと知りたいからね」
「何がわかったの?」
「君がからだを売る金目当ての女ではないこと」
「どうしてわかるの?」
「お金のことを何も聞かない」
「お金なんて興味ない。それから?」
「君は、ずっと僕の様子を見てるね。なぜ?」
「別に。あなたの顔が珍しいから」
「僕の顔が珍しいの? こんなのよくある顔じゃないか」
何だか、私の方が質問されてるみたい。私は慌てて答えた。「帰る」なんて言われたら大変な事になるから。
「いいえ、懐かしいから」
「懐かしい? 僕が? 君は確かに変わってるようだね」
男が、不思議な動物を見るような顔をして私を見ている。
「変わってないよ。それから何がわかったの?」
「タフな子だ。年齢の割りに上手だね。正直、驚いたよ」
「セックスのこと? それならいまの私の学校の女の子たちと同じよ。私のお母さんの時代は秘密にされていて違ったみたいだけど、セックスを畏れる必要がないことはどんな女子にもわかってきた。セックスと愛は別。サービスなんて大した技術じゃない。何の自慢にもならない」
「君は面白いね」
「それより、あなたの目的は何? 早く教えて」
男は、隠す風でもなく、あっさり答えた。
「君の脳を借りたい」
「え?」
「君の一番大事な部分とコンタクトしたいね」
「どういうこと?」
「男と女のほんとうのつき合いをしたい」
「全然、何のことかわからない」
本当に私は何のことか理解できなかった。
「一番深いところで、何も隠せないところで、君とつき合いたいよ。心と心を結んでみたい」
「へぇ、驚いた。真剣に言ってるの? からかってるのね?」
「真剣だよ」
たしかに、男は真剣に言ってるみたい。でも、何の事かしら。
「だって、私みたいな子供に。それに、昨日会ったばかりじゃない」
「年齢は関係ない。いつ会ったかも関係ない」
「やっぱり、あなたは変ね。変だと思ったから、興味を持った来たわけだけど」
「僕はいたって普通だよ」
男は冷静で、ほんとうに普通に喋っているだけみたいだ。一体、この男は、何?
「あなたはロマンチスト? それとも変態? そんなことを言うなんて思わなかった。でも、それも素敵かも知れない。私はどうすればいいの?」
私も好奇心が旺盛だがら、何だかゾクゾクしてきた。好奇心をくすぐられと、なぜ人間はこうも楽しい気分になるのか。今私は楽しい気分だから、頑張って冒険してよかったのかも知れない。
「君の脳に僕の愛を挿入する」
「はぁ? あなたの愛を? 挿入? やっぱり、ますますわからない」
「ごめん。正確に言うと、君の脳をちょっとだけいじって僕の記憶を加えるのさ」
男がニコニコ笑った。私ははじめて男が笑うのを見た。やっぱりお父さんに似ている。私には男の話しはわかりそうにないけど、男の様子を見ているのが楽しい。だって、これは異星人との会話だ。この男、もしかしたら、本気で地球人じゃない?
「依然として、わからないわ」
「君の脳をいじって、僕の昔死んだ恋人の記憶を移植したいのさ。それで、君がどこまでその女になるのか見たい」
「それって、真剣に言ってるの? 正気?」
「正気だよ。僕の顔もそんな感じだろ?」
たしかに、男は正気で、宇宙人かも知れないけど、からかっているのではないみたい。それにしても、相当にヘンな実験だ。聞いたこともない。たしかに世界は広いのかも知れない。
「そんなことができるの?」と私が聞くと、外国の病院に行くと出来ると言う。私を連れて行くつもりなのだ。えーっ、一体、私はどうなるんだろう? こんな男の話しを信じていいのかしら。
「私は外国で暮すの?」
「そうだよ。僕と一緒にね。もちろん君がOKなら」
「永く?」
「ある程度の時間がかかる。最低1年」
「その後はどうなるの? ずっと一緒にいるの?」
「たぶん」
「たぶん?」
「この実験で僕たちの心がうまく結ばれると、どこにいても好きな時に会える」
「ほんと?」
「会っている時と同じように、何でもできる。セックスも、一緒にいる時も、離れている時も、好きなだけできる」
「そんなこと、私が信じるわけがない」
「やってみればわかるよ」
「ふーん。でも、そんなことをして何になるの? あなたの自己満足だけじゃない? 私がその女になれるわけじゃないし。その女が蘇るわけでもないし」
「いや、カオリは知らないだろうけど、これはいま世界中でもっとも注目されている実験のひとつなんだ。成功したら世界の仕組みが変わる。人間の忘れていたすべての記憶が蘇る。死んだ人間たちもある意味で生き返る」
「私には全然理解できない。そんなこと面白いとも思えない。死んだ人間が生き返るなんて気持ち悪いだけじやない」
「君のお父さんにも会えるとしたら?」
私はハッとした。そんな事を言われたら、私だって真剣になるしかないよ。
「そんなこともできるの!」
「不可能ではない。君がつよく望むなら」
「つよく望むなら? 望まないとダメなの?」
「そう。望む度合いで、成功率が決定される」
「それなら凄いと思う。そりゃ、私のお父さんに会えるなら、私は何だってするわ。死ぬほど会いたから」
でも、待てよ。この男は、何で私のお父さんの事まで知ってるの? 私が昨日話したかしら? そこまで話した記憶はないけど。
「それだけじゃない。君は、新しい世界の住人としてもっと大きな存在になれる」
「何それ? 大きな存在って」
「君が日々憧れてきたもの。夢の中で悩まされてきた事。わかっているはずだ」
「どういうこと? あなたは私の事をどこまで知ってるの? 私のお父さんのことも知ってるの? なぜ、私を選んだの?」
「それは最初に言った。ナミコに似ているから」
「それだけ?」
「それと、君が予想以上に面白い女の子だから。君の話しは面白いよ。君は心に怪物を飼って苦しんでいると言ったね。それって、本当に生きてる生物かも知れないよ」
「私、そんな事まで話したかしら? あなたの話しは、飛躍し過ぎでついて行けない」
「君は昨日、僕に大きな変化を望んでいると確かに言ったよ。お父さんの事も。覚えてないの?」
「覚えてないわ」
「そう。いずれにしても、僕も同じなんだよ」
「同じって?」
「僕も苦しいんだ。僕の心にも怪物がいる。僕も君と同じ病気を持っている。早く解放されたい。だから、今度の計画は二人にピッタリの実験だよ」
「もしかしたら、あなたは私の事を調べた? 昨日会う前に」
「そうだね。会う約束をしてから一週間あったから、多少はね」
「それであなたは私の事をよく知ってるのね」
「まぁ、でも、そんな事はあまり気にしなくてもいいよね。昨日の君の話しで新しい事も沢山わかったし」
「それはそうだけど。ところで、私とあなたを繋ぐって、あなたの脳もいじるの?」
「勿論だ。君と一緒にね。生活も共にする必要がある」
「危なくないの?」
「脳のこと?」
「そう」
「10年前は大変だったけど、いまはもう大丈夫。技術は格段に進歩した」
「私はどうなるの?」
「うまく行けば、君はカオリであると同時にナミコ。君が望むなら、女として僕も支配できる」
「あなたはその女ともう一度やり直したいのね?」
「そうだ。ほんの一瞬でもそう思える時間が持てるなら、僕はそれで変化する。僕の心の中に住んでる怪物もいなくなる。実際にどうなるか調べたい」
「あなたは彼女をいまでも愛しているのね?」
「正確に言うと、ナミコをますます愛するようになっている」
「私はどうでもいいの?」
「実験がうまく行けばナミコになるのは君だ」
「私を愛してくれるの?」
「そうしたい」
「ひょっとして、これは新しい愛の実験かしら?」
「そうなるかも知れない」
「あなたはほんとに貿易商なの?」
「いまは言えない」
「日本人?」
「それも言えない。生まれは日本だけど」
「名前は?」
「ヒロシ」
「普通の日本人の名前ね」
「ニックネームだよ」
「実験は日本ではできないの?」
「日本では法にふれる」
「警察につかまるの?」
「罰金を取られるだけ。でも中止させられる。実験データが没収される」
「海外では安心なの?」
「医学的には安心だけど、別のリスクがある」
「どんな?」
「カオリは安全だけど、僕が命をねらわれる」
「えっ、なぜ? 誰に?」
「詳しくは言えない。アメリカにある、イタリアのマフィアみたいな組織だ」
「どうしてそんな危険を冒すの?」
「それが僕の人生だから。実験成果を買いたいという日本の政府関係者がいる」
「売れるの?」
「高くね」
「わかった。それがあなたの貿易なのね?」
「そういうことになる」
でも、こんなことってほんとうかしら? 意味がまるでわからない。これも世界をつくること? でも面白いのかも知れない。少なくても、いままで聞いたこともない事ばかりだ。私の脳とあの男の脳を繋ぐなんて。それで、あの男の死んだ恋人を私の脳に生き返らせるなんて。この実験がうまくいけば、死んだお父さんにも会えるかも知れないだなんて。 私が住んでいた世界にはない新しい刺激だ。男も一緒にやるなら、そんなに危険じゃないのかも知れない。
やってみようか? からだをいじると言っても、ピアスや刺青の次元とは違う。いじるのは、脳だって。それで、新しい愛の実験をするんだって。でも、やはりヘンなことを考えている男だ。お父さんもこんなことをやっていたのだろうか。人さらい、ではなく、脳さらい?
私はついに家出した。お母さんに相談したらびっくりしてひっくり返るに違いない。あやしい中年男と海外で一緒に暮らすと言っただけで、確実に真っ青になる。100%理解不能と言うだろう。世界の外側にはじき出されたような顔をするだろう。 お母さんでなくても、誰だって腰を抜かす。私の脳がいじられるのだ。失敗して死ぬ可能性だってある。お母さんに相談したら、学校や親類中に騒ぎまくって私を施設に監禁するに違いない。だから黙って行くことにした。「悟りを得て、つよい人間になるために、家を出ます。一年か二年、一人で修行してきます。心配しないで。連絡します」って、昔の出家僧のような置き手紙をして。
私は男が住む品川のホテルに向かった。家出は憧れの一つだったから、何だか楽しい。 男は毎朝ホテルを出て、夜になると帰ってきた。どこに行っているのか言わなかった。私は留守番で、簡単に食事の準備をしたり、何だか奥さんになったみたいで嬉しい気分。日本を出るまでの1ヶ月間、私は毎晩男に抱かれた。もちろん、こんなに男に抱かれたことはない。私の性のセンサーも完全に回復したみたいだ。男はやさしくて、セックスが済むと、ベッドの上で私を抱いたままボソボソといろんな話しをしてくれた。危険な男ほどやさしいのかも知れない。どうやら私が気に入ったみたい。
私も、自分の考えを面白いと言って聞いてくれる男にはじめて出会った。こういう人間が、私の周囲にはいなかったのだ。 ひょっとしたら、私は愛されているのかも知れない。男が私に特別な気持ちをこめているのを感じるから。私はいままでこんな風に人からあてにされたことはない。こんな男にめぐり合って、私はラッキーなのか? この男は、私の期待通りで、お父さんのように、何か特別な存在なのだろうか? そうあって欲しい。だから途中から心配になった。私でいいのかしら? もっといい女が出てきたら私はご用済み? そんなの絶対に許せない。

4 イスタンブール

カオリを好きになってはいけない。
たしかに、カオリには驚いた。母に置き手紙をして、正式に家出してきたという。キッパリしている。カオリは大胆で、大人の面をもっている。しかし、当然だがまだつよがっているだけだろう。新しい事態にどう対処できるかは未知数。不安定で危ない存在だ。誰かが守る必要がある。子供のままで、大人ではない。
それでも、期待した以上に、魅力的で、早熟な子であることは間違いない。早熟であること、しかも意識が特別つよい子でなければ、こんな実験はムリだ。脳ほど、高度であると同時に繊細な器官はないからだ。情報の一大集積基地・発進基地としての脳は、外界や内部のちょっとした変化に敏感に反応するし、すぐに悲鳴をあげる。毎日出される緊急指令も数えきれないほど多いし、はかなく脆弱な器官だ。修復能力の高さが最近の脳科学で証明されてきたとはいえ、少なくとも情報に関しては、簡単に間違った判断を下し、混乱する。まだとても未熟だ。リアルと仮想を見分ける情報の真偽に関する判断も、まったく正確ではない。脳は簡単に騙される。だから、この不正確さを当てにして、人間は「夢見る力」を育て、利用してきたわけだ。何のことはない、われわれが大切にする夢とは脳の情報処理の不正確さを原因とする場合が多いのだ。
だから、脳が改善されたら、人間は夢を見なくなる可能性も高くなる。もし人間が脳の情報処理の不正確さを改善できるようになると、重大な決断を迫られることになる。夢を見られなくなるとしたら、誰にとっても一大事件になるはすだ。人間の精神生活に根本的変化が起きるに違いないからだ。
バーチャル・リアリティにしても、夢と同じ原理で、脳の情報処理の未熟さを当てにしている。脳は、実際には存在しないものでも、それに相当する感覚を構成されて与えられると、現実に存在するものと簡単に判断してしまう。現在の脳にとっては、知覚だけが重要で、実際に存在するかどうかはどうでもいいわけだ。
しかし、われわれにとってはそうはいかない。現実に存在するのか、しないかは、常に決定的な差として重要な意味をもつ。脳の判断とわれわれの判断は同じではない。 こうして、たびたび、人間の生活のあらゆる局面で脳の判断と意識の判断は分裂し、衝突することになる。例えば、脳にとっては、バーチャルなリンゴを食べても、その感覚さえ人工的に構成されれば、満足できる。しかし、意識は、実際に食べていないことを知っているので、満足しない。 脳の判断と意識の判断は、違うのだ。 何よりも現実の胃が意識に対して「脳の判断を信用するな」と忠告することになる。そうしなければ、この人間はやがて飢えて死ぬことになるからだ。従って、このような脳の未熟さは、有効な仮想を構成する場合には利用価値があり、そうではない仮想を構成する場合には困った問題であるということになる。

何が正しく、何が間違っているのか。人間はこれまでケースバイケースで適当に都合のいいように解釈してきた。しかし、これまではそれで遣り繰りしてきたとしても、これからはそうはいかない。人間の技術がこれ以上進展しないなら同じでもいいだろう。しかし、問題は、技術がさらに発達し、この脳の未熟さに手をつけ脳改造を実現できる瀬戸際まで来てしまったということだ。容易ならざる大変な事態だ。
脳改造をして夢を見なくなった人間たちが登場したら、何を始めるだろうか? どうやってこれまでと同じ日常生活を維持するのか、それでも正気を保つ事で出来るのか、見当もつかない。逆に、夢や仮想の力に圧倒されて意識の力を失う人間たちが登場したら? この場合も、まったく見当がつかない。単に夢や仮想に閉じこもるオタクが増えるだけの比ではない事は、確実だ。夢や仮想を現実と思い込む事から、まったく思いがけない、信じられない事件も、続々と起きるに違いない。
どうするのか? 僕は、脳科学者のはしくれとして、これらの問題について考えてきた。新しいルールが確立される必要があるのだ。 実際、前の女たちの脳も、すぐに悲鳴をあげた。脳は一度狂い出すと取り返しがつかない。大変だ。カオリとの実験にも特別な慎重さが要求される。危険な兆候がひとつでも見えたら、実験はすぐに中止だ。精神に病いをきたす恐れのある危険水域には絶対に入らないこと。その点については、僕たちのチームも重大な責任を負っている。 それは、カオリが心配なことが第一の理由。次に、このような実験での失敗が、人間破壊という犯罪に相当するとか、倫理に反するとかの理由もある。
しかし、僕たちのグループにとっての緊急の問題は、それよりも、僕たちの実験ではひとつの脳が全体の脳ネットワークに繋がっているという事実だ。僕たちは、脳の改造や発展は単体の脳に対する操作では成功しないと考えている。だから、対象となる脳はつねに他の脳と接続されている。カオリの脳は僕の脳に接続されるし、僕の脳は他の多くの脳に接続されている。つまり、ひとつの脳における失敗が、全体の脳ネットワークに侵入し危害を加える。一度加えられた危害を修復することは簡単ではない。被害がどの脳に、どの程度で出るのか、まだまだその把握が困難だからだ。 これが最大の理由だ。カオリの脳における失敗が、全体の成長をおびやす。ここでは、全体として成長することしか出来ない。犠牲を出しても他で補えばいいという世界ではない。それとは違う構造をもっている。
だから、前の女たちの場合も、悲鳴をあげた時点で実験をすぐに中止した。多額の慰労金をつけ、真相も知らせず、家に帰ってもらった。ほんとうの理由~彼女たちの脳が実験に耐えられるだけの意識のつよさを持っていないこと~は、彼女たちに説明していない。女として嫌いになったとか、他に好きな女ができたとかの理由で、ごまかしている。慰労金は慰謝料名目だ。意識のつよい子を募集するなら、本当は公式ルートを踏んだ方が獲得できる可能性は高い。それは承知している。しかし、違法なことをやるわけだから、そうはいかない。それでは失敗例を闇から闇に葬ることができない。僕たちの脳ネットワークの存在や現在やっている実験も、公になってしまう。だからネットでの怪しい募集がちょうどいいのだ。

それにしても、カオリは早熟だった。からだも、アタマの中も。特にアタマの中が。カオリはそこまで自覚していなかったかも知れない。カオリのセックスも、15歳にしては異常なほどうまい。風俗で訓練したとしか思えない。男を楽しませるテクニックを知っている。からだも驚くほどキレイで、男をその気にさせる。いまの若い女たちがみんなこうだとすれば、男たちも大変だ。あんな上品な声を出されたら、どんな男ものめりこむ。男は繊細な可愛さや色気に弱い。それが演技されたものであることがわかっていても、守ってあげたいとか男の方で勝手に思いはじめ、ドライになれない。乱暴に、道具同然に、女を冷たく扱えなくなる。
だから、僕は注意しないといけない。カオリを好きになったらダメなのだ。カオリはあくまで実験材料だ。必要以上に大切に扱ってはいけない。実験の目的を忘れることはできない。それを忘れたら元も子もなくなる。
しかし、カオリは日に日に魅力を増していく。困ったものだ。カオリ自身が毎日自分に目覚め、急激に変化していくため、僕もその変化に抵抗できない。巻き込まれざるを得ないのだ。そして、僕と話しながら、恐ろしいほど冷静な目で僕を見ている。この冷たい目つきは、一体何だ? まるで、神の目で僕を観察している感じだ。この目つきがカオリの最大の魅力だ。一方で、セックスでは男を吸い寄せる甘い目をする。それに対して、この目は冷徹な哲学者の風情だ。ものすごく冷静に、僕のやることのすべてを見下ろしている。にこにこ笑いながら、この目を同時に使っている。誰に学んだのか。カオリは何を見ているのか。とても15歳の小娘には思えない。実験にも平気でついてくる気だ。別の人格になることにも興味があるようだ。
カオリと知り合ってから1ヶ月後、夏の初めに僕はカオリを連れて、成田からパリ経由でイスタンブールに旅立った。最初にパリに2週間滞在し、同じメンバーの友人の家に泊めてもらい、カオリを美術館や最新のブティックや繁華街やいろんなところに連れて行った。友人にカオリを見せておく必要があったし、カオリには出来るだけ新旧の多くのものを見せておきたかった。カオリにはいろいろ学んでもらう必要がある。それも実験を支える素養として必要だったからだ。しかし、カオリはパリを喜ばなかった。

「面白くないの?」と聞くと、 「面白いわ。でも興奮しない」と答えた。
「なぜだろう? カオリくらいの年の女の子たちはパリに夢中になるけど」
「わからない。何だかもう知っていて、飽きている気がする」
「退屈。飽きている。面白いね。それが判断の基準みたいだね。君の特徴だ」
「だって、興奮しないわけだから、退屈よ」
それが、イスタンブールに行った途端、カオリの表情が変わった。イスタンブールは面白いと言う。なぜだろう?
「イスタンブールのどこが面白いの?」
「わからないけど、パリとはまるで雰囲気が違う」
「どう違うの?」
「一番違うのはトルコの若い子たちの目つきね。男の子も女の子も乾いてない。飢えた目。好奇心と欲望ではち切れそうな目。いいわ。私と同じ匂いがする。好きになれそう。なんだか懐かしい街だわ」
「懐かしい? イスタンブールを知ってるの?」
「もちろん知らないけど」
イスタンブールは、昔もいまも観光と金融と文化で栄える中東の大都市だ。トルコはいま、EU統合問題で大揺れする一方で、国際資本の流入で大きな活性化の時を迎えている。そのせいもあり、東西文明の合流地点として昔から有名な大都市イスタンブールはいま、首都アンカラとは別の活気にあふれている。人口も一時1300万人と言われていたが、イスタンブールの友人の建築家によればさらに増えて現在では1500万人を超えているという。
しかし、この街の魅力はこのような表面的な活気だけではない。ここは過去の記憶が現在もそのまま生きている珍しい土地だ。トプカプ宮殿、ブルーモスク、アヤソフィアなどがある観光地をはずれ、ヨーロッパサイドとアジアサイドの古い町並みを一日ゆっくり歩いてみればよくわかる。ここでは過去と現在の時間が、整理されないまま、多様に錯綜している。古い家屋と超モダンのビルが同居し、古代につくられた道と最新の道が街中のいたるところで平行して走っている。イスタンブールでは過去が生きているという点で、世界でも際立った街なのだ。その点が、過去が遺跡としてきれいに整理されているローマとは違う。また同じ文明の大合流地点と言っても、洗練されて華やぐパリとも違う。

  一人でホスポラス海峡を渡るボートに乗ったり、街中をあてどなくさまよっていると、 ほんとうに自分が中世の街に暮しているような錯覚に襲われる。 僕は中世のトルコ伝統の細密画の絵師で、旅でしばらく家を空けた後、 古ぼけた鉄の玄関を静かに開けて自分の家に戻ると、そこに懐かしい妻が子供を連れて現れ、 「お帰りなさい」と笑顔で出迎えてくれる気がする。

だから、実験の成果を検証するために、イスタンブールほど相応しい場所はないのだ。必要な手術はベイルートで行う。実験の成果検証のために滞在する都市はイスタンブール。それが僕のチームが計画した旅のコースだ。

イスタンブールでは、僕の過去の記憶も、現在として鮮明に蘇ってくる。ここでは過去と現在が混在できる。ナミコが僕の記憶から抜け出して、街の中を一人で歩き出す。僕も17歳の少年に戻ってナミコを追いかけ、一緒に道を歩いていく。ナミコと僕は、ボスポラス海峡近くの現代美術館の裏庭で波しぶきを浴びながら抱き合い、ラバントの最新設備のショッピングモールの中を子猫のオスとメスのように走り回り、朝から晩まで街の中でじゃれ合っている。一日はそれを曖昧にして楽しんでいるのがいい。次の日はそれを明確に区別するように努力する。
これほど、僕の実験と意識の訓練にふさわしい土地はない。手術後の僕とカオリの生活の場所として、イスタンブールは最適の土地なのだ。 それに、ここの女たちは、長年の東西文明衝突の象徴として、たぶん世界で一番美しい。ヨーロッパ系・アラブ系・アジア系・ロシア系と、血は複雑に混じり合い、4通りの美しい女たちが、大学キャンパスから街中をうろうろしている。食べ物も、トルコ料理が世界三大料理の一つに数えられているように、かぎりなくうまい。友人も、貿易商の肩書きで毎年ここに来るせいで、たくさんできた。誰も僕の本当の職業は知らないが。
僕は今回はアジアサイドのカディキョイにある最新ホテルにカオリと泊まった。 それにしても、カオリもここでは一人前の美しい女なのだ。カオリが街を歩くと、男たちが振り返る。男たちはカオリのからだに熱い視線を注ぐ。カオリもその時ばかりは妖艶な笑みを浮かべる。まだ15才なのに。そして、そんなカオリを連れて歩く私を、男たちが羨ましそうに見るのだ。

5 ベイルート大学付属脳化学研究センター医療研究室

3ヶ月後。
カオリがイスタンブールの生活に馴れたのを確認してから、二人でレバノンの首都ベイルートに向かった。飛行機でたった2時間。ベイルートも、小さなパリの真珠と呼ばれ、イスタンブールとはまたタイプの違う東西文化交流の地で、観光と金融の都市だ。ここで、メンバーの一人である友人の産婦人科医が僕たちの実験のために準備を進めてくれている。

ベイルート大学付属脳科学研究センター医療研究室。ベイルートの中心街を抜けた海岸通りの一角に、この大きなセンターは緑に囲まれて聳えるように立っている。アメリカをはじめEU圏からの予算上の支援を受けており、充分すぎるほどの資金をもつリッチなセンターだ。
この友人の話しでは、むろん公には秘密ということになっているが、ベイルートのある政府系医療研究室ではすでに1990年代後半からヒトを対象としたクローン開発実験が行われるようになったという。彼の話しでは「その病院で誕生したクローン人間の何人かが、少なくとも100人程度は、いまでは世界各地で活躍している」という。僕が「成功したのは君の病院ではないのか?」と聞くと、友人は曖昧に笑って答えなかったが。
いずれにしても、この病院は脳科学系としてはいまでは世界でも最も有名な医療機関の一つになり、最先端医療が毎日行われていることは周知の事実だ。人間だけではなく、多様なクローン動物の開発も行われているらしい。僕の脳科学者としての仕事には、この病院と私が籍をおくアメリカの某研究所との情報交換も含まれている。私の本当の仕事が「ポスト人間の脳」を開発することであることは、私の一部の友人以外は誰も知らない。

カオリの第1回目の手術は、それほど簡単ではなかった。15才の脳にしては構造的に未発達の部分が多かったと担当医は言った。この担当医の役割は、カオリの脳に侵襲式のBMI-Xシステムと呼ばれる最新のブレーン・マシーン・インターフェイを装着することだ。非侵襲式も侵襲式も最近はどちらも以前より格段に進歩していて、一般的には非侵襲式が安全のため人気があるが、僕たちの実験ではかなり込み入ったことをやるため、侵襲式をメインで使用している。ネットワーク構築とその後のプログラム設定は僕の友人の担当で、ここからが秘密になっている。カオリには、僕が知っているナミコの記憶と共に、僕の研究機関が収集したナミコの幼少時からのすべての記憶も挿入するからだ。
しかカオリの手術も、やっと3回目でうまく行った。その後、今度は二人揃って1週間入院し、僕の脳にすでに埋め込んであるBMI-Xシステムを調整し、カオリのBMI-Xシステムとの同期を図る手術を行った。この手術が重要だった。
しかし、これも無事に成功したので、いよいよカオリの脳に、ナミコの記憶を挿入する作業をはじめた。そして、両者をうまく融合させるために、僕たちは毎日、通常の会話の他にBMI-Xシステムを通しても会話するようになった。カオリは慣れていないので、日常会話とこのシステムによる会話の差が最初はなかなかわからなかった。通常の会話における心の過程と、BMI-Xシステムが引き起こす心の過程との差を判別することは、最初は誰にも難しいからだ。

僕が、自分の意識を意図的に朦朧にして、僕の脳に残されたナミコの記憶の中にもぐりこみ、死んだナミコを一度も死んだことがないと本気で感覚するようになると、その影響がBMI-Xシステムを通じてカオリにも現れ、カオリの脳に挿入されたナミコの記憶とカオリ自身の記憶が接触をはじめる。私の見え透いたウソの演技はカオリの無意識の門を通過できないが、私が錯覚であれ何であれ本気でそのように思いはじめると、カオリの無意識はその影響を受け、次第に私からの仕掛けを防御できなくなり、二つの記憶がもともと一つの記憶だったかのように融合を開始するはず、という仮説だ。
その時カオリは、最初は私が演技しているのか、本当にそう思っているのか、類推しながら対応することになる。そして、カオリにその気がない時は大した効果は持たないが、少しでもカオリの方でも私に同情したり、或いは自分も積極的にナミコでありたいと思ったりすると、カオリの脳にも大きな変化があらわれる。つまり、私の侵入に対する厳しい審査をカオリが自分でやめてしまうという変化だ。この変化が重要なのだ。その結果、その場合に限り、私の努力も、カオリによって拒絶される行為だったものが、歓迎される行為に変化する。カオリが、抵抗しつつも、ナミコへの同化作業をはじめてしまうというわけだ。
こうして、僕とカオリによる実験は、「愛」の力も巧みに利用することで、一定の成果を上げる可能性が出てくる。ある日、突然、カオリが、「私はナミコよ。何か変?」と自信をもって言い出すことも不可能とはいえない。僕の期待はそこにある。その時、カオリの脳は一体どうなっているのか? 脳は僕たちの仮説の通りに改造され、僕たちは新しい人格形成に成功したことになるのか? これが僕の最大の関心だ。 そして、一旦そうなってしまえば、ナミコが23才で死んでいるせいもあり、まだ若いカオリが23才以後のナミコも演じきり、ナミコ以上のナミコになる可能性は無いとはいえない。カオリがそうなれば、僕にその過程がリアルと感じられる限り、僕は17才で中断したナミコとの関係を大切に育てていけるのではないか? カオリがナミコの代わりをやってくれるのだ。
さらに、僕が別の手術でナミコが23才で死んだという自分の記憶を消してしまうなら、僕がめざす実験は完璧なものに仕上がるのではないか? カオリはそれで混乱することになるのか。或いは混乱しないのか。 僕の脳とカオリの脳は常時ネットワークで接続されている。 意図的なハッキングと、無意識のハッキング。僕とカオリは、毎日、それをお互いに対して繰り返していく。

  たぶん、カオリにも、僕にも、新しい記憶がつくられることになる。

だからこそ問題は、そこに至るための具体的な方法と、その成果を判断する能力だ。甘い評価はダメだ。正確無比なものでなければ意味はない。真相がわからないからだ。

6 愛の駆け引き

僕たちは術後の回復を待って、ベイルートからイスタンブールに戻った。そして、1ヶ月後にカディキョイのホテルを引き払い、ヨーロッパサイドのタクシム広場の北側にアパートを借り、夫婦であることにして一緒に暮らしはじめた。
トルコ人は日本人に親切で、僕たちの関係を怪しむ者は誰もいなかった。これが日本なら、僕たちの年齢が離れていることは誰の目にも明らかなので、夫婦であることを疑う者も出たに違いない。その意味でも、イスタンブールを居住地に選んだことは正解だった。アパートのトルコ人の住人たちが僕たちを見る目は優しかった。 はじめの内は「私はカオリ。ナミコじゃないわ」と言い続けていたカオリも、次第にそれを言わなくなった。しかし、それだけでは僕の作戦が成功しているのかどうかはわからない。アタマのいいカオリに、別の考えが芽生えている可能性だってあるからだ。何事も、慎重に。ここからは、良くも悪くも、僕とカオリとの間の騙し合いだ。
僕はカオリに油断できない。愛情と実験を明確に区別すること。非情に区別することが、僕が自分の仕事を成功させるための鉄則だ。僕とカオリの脳は、すでにBMIネットワークの一部として繋がれている。読み取る技術に長けてくれば、原則、カオリは僕のどんな心の動きも察知し、見破ることが出来る。だから、僕は、カオリが自分はナミコだと思いこむ度合いを、少なくとも一定レベル以上に高める作業を急がなければならない。この作戦は、時間との勝負なのだ。その時間を過ぎてしまえば、僕のカオリへの誘導は見破られ、僕の努力は無効になってしまう。とにかく、急ごう。

僕のカオリへの働きかけ方はいつも同じだった。それは徹底して「僕は君を愛している」と言い続けることだ。女には「愛」が一番の特効薬だ。これだけでいい。単純そのものだが、カオリの心の微妙な変化も含め、それらをすべて正確に読み取りながら対応していく必要があるのだ。

   僕は、君を、愛している。いままでも。これからも。

僕がそう言うと、カオリはいつも嬉しそうにして僕に飛びついてくる。僕もカオリをしっかりと抱きしめる。しかし、そこからいつ終るとも知れないカオリの質問攻めが始まる。カオリも、それが儀式であるかのように、毎回同じセリフを繰り返す。僕も、同じセリフを繰り返す。
「あなたが、私を愛してる?」
「あぁ、そうだよ」
「あなたが、私を愛してる。愛してるの? あなたが、私を? ホントに?」
「あぁ、本当だよ」
「でも、あなたが言う君って、誰のことかしら?」
「君は君だよ」
「私は、私?」
「そう。君は君」
「なぜなの? イスタンブールに戻ってきてから、あなたは私の名前を呼ばなくなった。いつも、君」
「だって、君は君じゃないか」
「最近は、いつも同じ答えね。でもいいわ。不思議なのよ。私も、何だか、時々、あなたを愛しているのかも、って思う」
「本当に?」
「多分ね」
「多分?」
「最初は、お父さんに似た人を探してだけだから、何とも思わなかったけど。あなたが私をこんなに愛してくれるのは、やっぱりお父さんに関係がある気がする」
「僕も、なぜ君をこんなに愛することになったのか、実は正直わからない。予想外だ。ナミコとカオリの区別も、よくわかっていたのに、最近わからなくなってきた」
「だから、私の名前を呼ばないで、君って言うのね?」
「当面は、それしかないよね」
「私はカオリ。ナミコじゃない。それはよくわかっているけど、でも、私も最近、少しおかしい。子供が欲しいと言ったナミコの気持ちが少しわかってきた」
「子供が欲しいと言ったのは、カオリじゃなくて、ナミコだよ」
「あなたが私に産ませたいなら、どっちでもいい。私が産むわ」
「えっ、ほんとに?」
「私もあなたの子供が欲しいのかも知れない」
「それはいくら何でも早すぎる。君はまだ15歳だよ」
「でも、それだと、ナミコに言ったセリフと同じじゃない? ダメよ。あなたがナミコにそんなこと言ったから、早く死んでしまったんでしょ?」
「たぶん。そうだと思う」
「あなたは女の判断に任せると言ったはず」
「君が大丈夫ならいいけど」
「私は大丈夫。その代わり、私はあなたをお父さんの生まれ変わりと思ってもいい?」
「君がそう思いたいなら」
「それなら嬉しい気がする」
「でも、君は君で、お父さんにも会えるかも知れないよ。別に僕をムリにお父さんの再来にしなくても」
「その時は、その時よ」

何か、変だ。カオリの様子がおかしい。カオリが自分から僕を愛してるかも知れないと言い出すとは。それに、今日は子供を産みたいなんて、ナミコと同じ事を言い出した。これだと、僕たちのチームが書いたストーリーがうまく行き過ぎる。カオリは、既にナミコになっている。そんなに簡単な事ではないはずだ。 今のところ、カオリに意識障害の徴候は見られない。それは、カオリの意識の力がつよいからか? 或いは、カオリが途中から、意図的に、このレースから離脱したのか? 或いは、逆で、自分から積極的にレースに参加したのか? どちらの場合も、僕には内緒で。カオリは、何か別の事を考えている気がする。
そうだとすれば、僕が混乱しない内に、早くカオリの実際の過程を知っておく必要がある。そうしなければ、僕の方がおかしくなるかも知れない。二人の脳は繋がっているわけだから、僕が弱みを持つと、それはカオリに見抜かれて利用される可能性が出て来るのだ。僕がカオリに支配されるようになってしまえば、正に僕とカオリの立場は逆転だ。
「君も、僕に、何かしてるの? 昨日も僕の脳マップを見てたよね?」
「気がついた?」
カオリが、少し笑った。やはり、何か、危ない。
「変だと思ってたけど。最近、僕の記憶系も微妙に混乱してるから」
「でも、私は、あなたのように意識的にやってるわけじゃない。だから安心していいのよ。あなたの方法は私に教えてくれないんでしょ?」
「それは最高機密の一つだからね。僕の一存ではどうにもならない」
「それがあなたのいつもの言い訳ね」
「君は、僕に何をしてるの?」
「あなたと愛し合う時に、できるだけ、正確に、お父さんのことを想い出しているだけ。あなたが私の中にいる時にずっとお父さんのことを考えているの。単純でしょ?」
「でも、結局、その方法が一番効果があるのかも知れない」
「効果が出てる?」
僕も、正直なところ、認めざるを得ない事がある。特に、最近、それが増えている。
「最近、僕が知らない男の夢がよく出てくるからね。その男が君のお父さんに違いないと感じる。君の影響だよね?」
これは、本当の事だ。カオリに言わない方がいいのか? しかし、言わなければ、カオリが心の内面をさらけ出すことはない。全て、言ってしまい、カオリの反応を見て、真相を探るしかない。最大の注意点は、僕自身がどうなっているかについて冷静に判断できる事だが。
「ホント? 嬉しいわ」
「この間も、本屋に行った時、オルハン・パムクの本を必死で探している自分に気づいてびっくりしたよ。僕は小説は読まなかったからね。オルハンは君が言っていたお父さんが好きな作家だった」
「有難う! 覚えていてくれたのね。オルハンはお父さんのお気に入りで、イスタンブールの話しもよくしてくれたわ。政治のことは私には難しくてわからなかったけど」
「それで君はイスタンブールのことを知っていたのか」
「実はそう」
「来たこともあったの?」
「もちろんお話しだけで、来たのははじめてよ。お父さんが好きなイスタンブールは私も好き。だから私がいまイスタンブールに住んでるなんて夢みたい」
「ノーベル賞もとった作家で、日本でも有名だからね。とにかく、オルハンのこともそうだけど、最近自分の食べ物の好みも変化してる。自分の中に知らない人間が住んでいる感覚だ。それほど気持ちが悪いわけではない。まぁ、この感覚が僕たちが研究している感覚のわけだけど。まさか僕が君からこんなにつよい影響を受けるとは」
「私も、最近あなたを見ていると、本当にお父さんのそばにいるように感じる。変ね。私は死者の甦りなんて信じてないけどね。でも私には、あなたがお父さんとの合体のように見えてきた。お父さんの匂いがするの。あなたの匂いと混じってる。懐かしいわ」
こんな話しが進展してしまうと、カオリはただ自然に振舞っているだけなのか、やはり何か僕には秘密の作戦を行使しているのか、かなりわからない事になってくる。とにかく、今は、僕も自分の感情を明確に言い、カオリの変化と自分の変化を同時に検証していくしかないだろう。
「僕はいま、僕と君のお父さんのミックス。君も、ナミコとカオリのミックスだ」
「私も、カオリにこだわらなければ、得するのかも知れない。その方があなたがもっと私を愛してくれるから」
「自分にこだわらないなんて、そんなことできる?」
「わからないけど。そうして欲しいの?」
「もちろん。すごいことになる」
「やってみるわ」

僕が、今、自分がどんな顔をしているか、鏡で見たら、一番驚くのは自分かも知れない。僕は、当然だが、カオリに対して、僕たちのチームが立てた作戦に従って行動している。それに、カオリに対する愛の感情が少し混じってきた為、多少混乱しているだけだ。そんな僕が、カオリの場合について、自然に振舞っていて僕への愛の感情を持ち始めただけなのか、それとも僕たちの意図を見抜いて別の作戦を実行しているのか、それについて詮索している。ややこしいのは、こんな僕の内面が、僕がカオリに対して隠せず、全部脳ネットワークを通じてカオリに筒抜けになっているという事だ。カオリは、僕のこんな状態を、どこまで読み取っているのだろう?

7 私は思う

あの男は、結局何をしたかったんだろう?
最近、それが私にもわかってきた。最初の内は男の説明を真に受けてたけど、しばらくすると「これが私の考え」というものが湧いてきた。
男の解釈では、私たちがやっていたのは脳に介入する新しい医学的実験だけど、果たしてそうだろうか? 私には結局、私の体験も、私の成長も、それが脳の改造やBMIの効果なのかどうか、未だによくわからない。要するに、新しい装置を使った洗脳ごっこだよ。洗脳ごっこなら、人間は昔から毎日やってきたことだ。その意味で、別に新しい実験じゃない。使ってる装置が新しいだけ。効果があったからと言って、それがほんとうに脳改造のおかげなのかも何の保証もない。そんなことをしなくても、私たちが愛し合っただけで、同じ効果が起きたかもしれないからだ。
だから、私はこの実験には本当の関心がもてないままだ。私たちの実験が成功していたのか、不成功に終わったのか、どっちでもいい気がする。 そんな実験よりも、私には、男というものが少しわかった事が面白かった。男って、根っからのロマンチスト? そして、何で、男は、いつも何か新しいものをつくりたがる動物なのだろう? 私は、死んだおばあちゃんを思い出した。お父さんのお母さん。おばあちゃんの口ぐせは、「男の言う新しいことは、古いこと。後始末をするのは、いつも女」だ。お父さんもおばあちゃんにはかなわなかったみたいで、「お前も、新らしがりを気取ってるけど、昔の男と同じ」と言われる度に、苦笑していた。たしかに、実験をするのは男で、その結果を生活の中で試すのは女なのかも知れない。
今度だって、結局整理するのは私じゃないか。まだ、たった13才の女子が、だよ。 それにしても、お父さんなら、いまの私を見て何と言うだろう。いい冒険をしたと褒めてくれるだろうか? 私は褒めて欲しい。それとも、失敗だったと言うだろうか? あぁ、私はお父さんに会いたいよ。そして、お父さんの考えを聞きたいよ。 男が私をナミコにしたかったように、私も男を私のお父さんにしたかったのかも知れない。男の影響力と私の影響力。どっちがつよかったのかしら? 

男が私から逃げ出したとすると、私の方がつよかったのかも知れない。いまでも私たちの脳がつながっているなら、私たちの勝負はまだ続いているの? 不利になったので、装置もはずし、私から身を隠したの? たしかに私は変わったわ。私はつよくなったと思う。世界への好奇心はもっとつよくなった。世界について、私はもっともっと知りたくてたまらない。
私が一番楽しかったのは、男が私を真剣に愛してくれたこと。少なくても、私にはそう見えたこと。私も真剣に男を愛し始めた。自分で子供が欲しいと思ったなんて、いまでも自分を信じられない。私にとってはまさに青天の霹靂だ。私は男と暮している時、とにかく毎日が楽しかった。実際に、イスタンブールという、憧れの世界に存在していたし、毎日、男に愛され、男の知恵を盗み、お父さんに繋がりたいと思っていた。幸福な毎日だった。お父さんが何をしていたのか、もっと知りたかった。そして、男もほんとうにお父さんに似ているなら、男とずっと一緒にいたかった。私は男を愛した。だから彼の子供が欲しいと思った。
でも、楽しかったのに、男は去った。 結局、私たちが出会ってからちょうど1年後に。そう言えば、あの男もこの実験には1年位が必要と言っていた。

その朝、目覚めたら、隣に寝ているはずの男がいなかった。荷物はそのまま。夜になっても帰ってこなかった。こんなことは一度もなかった。事故? いや、あの慎重な男が事故に遭うなんて考えられない。それなら事件? 危険な仕事だと言っていたから、さらわれて、殺されたの? 私は、心配で、その日は何も手がつかなかった。夜も、朝まで眠れなかった。まさか。男はもう死んでるのかも知れないのだ。
次の日になって、はじめて私は残された男の荷物を調べた。荷物を残していくなんて絶対におかしい。名前は本当だった。篠原ヒロシだった。平凡な名前だ。それなら日本人? でも国籍は日本とトルコの二重国籍。日本とトルコの二つのパスポートを持っていたからだ。でも、それもおかしいかも知れない。日本人なら二重国籍は持てないと聞いたことがあるからだ。日本人じゃない? 職業も貿易商ではなく、脳科学者と書いてある。脳科学者? 所属はアメリカの研究所になっている。専門家だったのだ。
その日の夕方、私のホテルに、ベイルート大学の医師と名乗る男から電話があった。私が初めて聞く声だった。脳に埋め込んだ装置をはずす必要があると言う。イスタンブールとベイルートの往復チケットをホテル宛てに送ったので、それでベイルートの病院に来るようにと言った。私が、あの男のことを聞いたら、男は昨日その手術を一人で受けたという。詳しいことはわからないとその医者は言ったが、手術後にヒロシの態度が変わったという。態度が変わった? 何があったの? どう変わったの? 私にはすごく重要な事だ。でも、その医者は何も詳しい事を話してくれない。ただ、男の身は安全だと言った。その事実だけを私に話すように、ヒロシが頼んだそうだ。
私は、何があったのか、一体どういう事だったのか、なぜ荷物は残されているのか、全部知りたかった。でも、これでヒロシの失踪が突然であることがわかった。誘拐されたのでも、殺されたのでもないらしい。よかった。私の目から、知らない内に涙が零れていた。私は、少し安心して、泣いた。 とにかく、仕方ないので、私も指定された日に飛行機に乗ってベイルートの病院に行き、手術を受けた。帰りに、男から預かっているという白い小さなカバンを渡された。控え室で開けて見たら、日本へのチケットと、500万円のお金が入っていた。あの医者に男の行き先を聞くと、何も聞いていないと言われた。
ヒロシは、もう私を愛していないの? あんなに熱心だったのに。あの医者は変わったって言ったけど、一体何が? まさか、精神のバランスを崩して、発狂しちゃったとか。もし精神のバランスを崩したとしたら、ヒロシの方が私より先に整理できなくなったということ? ヒロシが想定していた女よりも、私はもっとつよかったのか? 或いは、途中で私の「作戦」に気づいいて、怖れをなしたのかも知れない。
私の「作戦」なんて、ヒロシにも言った通り、ただもっと愛される為のものだったから、ヒロシにとって邪魔にならないはずなのに。 でも、私は、これから、どこへ行けばいいの? どうすればいいの? そう思うと、私は、突然息苦しくなった。愛する者を失ったことをやっと自覚したのだ。
私は、また一人じゃないか。辛いよ。寂しいよ。ヒロシに会いたいよ。私は、この冒険で、一体何を得たことになるのだろう? もしかしたら、この男は本当に宇宙人だった? 私を捨てたのではなく、何か正当な理由があって宇宙に帰っただけのかも知れない。宇宙人なので私に説明できなかったのだ。とすれば、どこかにその理由がわかる痕跡が残されているはずだ。よし、探してみよう。そんな風に思うしかなかった。そうでなければ、私はとても耐えられない。男を失ったことの重みに耐えられない。私は悲しかった。
帰国してから、私は、いままで見なかったような場所に、あちこち目をやるようになった。お母さんや友達には「カオリは目つきが変わった」と言われた。男が残した痕跡が重要だからだ。
私の最初の男。私はヒロシのからだのすみずみまでよく覚えている。私は彼の痕跡を探さなければならない。 私は、愛を知ってしまった。でも、私が知ったのは本当に愛なのだろうか? 愛って何だろう? 考えてみるとわからない。私が愛していたのは、ヒロシではなく、結局、お父さんだったのかも知れないし。
唯一の救いは、帰国して、しばらくしてから、自分の部屋に籠もり、よくよく考えてみて、私の心には傷がついていないことを理解できたことだ。私は、自分の心を、何日も何日も、他には何もしないで、ただ胸に手を当てて、感じてみた。すると、私の心が健康なことがわかった。かえって、一人で落ち込んでいた一年前に比べたら、はるかに健康で、もっと快活になっていることが実感できた。嬉しい。私は大丈夫なのだ。
あの男は去ったけど、私には男に捨てられたという感覚はない。もし、捨てられていたなら、私は確実に、深く、傷ついていただろう。そうではなく、 かえって、あの男の方が、あの男と私が居た場所から出て行っただけなのだ。だから、もちろん私があの男を捨てたわけじゃないけど、私は捨てられてはいない。 それで、私の心は少しも傷ついていない。私は、心が傷つくことだけは恐れていたから、本当によかった。 そう思ったら、急に、ヒロシの痕跡を私の周囲に探す必要がないこともわかった。私はあの男に捨てられたのではなく、ただ宇宙人だったから私のもとを去っただけだと思いたかったから、宇宙人としての痕跡を私の周囲に発見する必要があった。でも、ただあの男が出て行っただけだから、痕跡探しも不要になった。あの男が宇宙人であってもなくても、私には関係ない。だから、私は探すのを止めた。 ただ、私は、こうしてあの男からは解放されたのかも知れないけど、これから、愛について、本気で考えなければいけないのかも知れない。

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